島村抱月 しまむら・ほうげつ(1871—1918)


 

本名=島村滝太郎(しまむら・たきたろう)
明治4年1月10日(新暦2月28日)—大正7年11月5日 
享年47歳(安祥院実相抱月居士)
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種16号2側
 



評論家・劇作家・演出家。島根県生。東京専門学校(現・早稲田大学)卒。『早稲田文学』の編集、読売新聞の記者などを経て、明治38年欧州から帰国後、早稲田大学教授。39年「文芸協会」設立。女優松井須磨子との恋により多くを失ったが、劇団『芸能座』を結成。『文芸上の自然主義』『自然主義の価値』などがある。







 人間は自ら飾り偽る動物である。真我に達するの困難は必ずしも無我に達する困難に劣るものでない。切に真我の人を想望する。冷気ある個人、温気ある個人、熱気ある個人、要するに夫が真實でさへあれば、何れでもよい。困難は其の冷を冷とし、温を温とし、熟を熱として傳へる點にある。熱を以て冷を議し、冷を以て熱を議する謂れはない。
今日の如き時世にあつては、百人寄れば百個別の世界である。共通同感の頼みは如何にも果敢ない。各人はただ黙々として其の行かんとする所に行く外はない。
 我等が思議言説の底にはただ黙の一字があるのみだ。それをお互に斯うして口を動かし筆を動かすといふのは、多分に外から強ひられる結果である。苦しいながらに絞り出す叶聲に外ならない。
 
(真 我)



 

 どちらかといえば学者肌の島村抱月が40歳をすぎてから出合った女優松井須磨子は彼の運命を変えた。
 その恋愛によって苦悶し、遂には家庭を捨てた。恩師坪内逍遙に背き、母校早稲田大学を去って須磨子と芸術座を結成、新劇運動に飛び込んでいった。数年間、苦闘の瓦礫を積んだまま、大正期の新劇の普及発展に大きく貢献したが、流行性感冒から肺炎に変じ心臓麻痺を併発、大正7年11月5日午前2時、芸術座の舞台裏にあった『牛込矢来倶楽部』の一室で看取る者も間に合わないまま寂しく死んでいった。
 松井須磨子は抱月死去の翌年の1月5日午前2時、同じ舞台裏で縊死により、あと追い自殺を遂げた。松井須磨子の墓は新宿・弁天町の多聞院墓地にあると聞く。



 

 〈在るがまゝの現実に即して 全的存在の意義を髣髴す 観照の世界也 味に徹したる人生也 此の心境を藝術と云ふ 抱月〉、五十嵐力の揮毫になる抱月の芸術観を刻した自然石が土墳の上に据えられてあり、香立ての水たまりには一葉が浮く。傍らの草むらに生えるケイトウの花がやけに赤く、通りから松の木越に丸みを帯びたその碑が寂しく望める。
 なお、雑司ヶ谷のこの墓は抱月の三女島村トシコさんが管理していたのだが、高齢で世話が困難になったため平成16年2月、抱月の父などが眠る島根県浜田市の浄光寺に完成した新しい島村家の墓に、86年ぶりの里帰りを果たし、納骨された。
 雑司ヶ谷の墓は抱月ファンや学者などの要望があるため、廃墓せずに残すとのことである。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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