島木健作 しまき・けんさく(1903—1945)


 

本名=朝倉菊雄(あさくら・きくお)
明治36年9月7日—昭和20年8月17日 
享年41歳(克文院純道義健居士)
神奈川県鎌倉市山ノ内1402 浄智寺(臨済宗)



小説家。北海道生。東北帝国大学中退。様々な職を転々したのち、農民運動に従事。昭和3年検挙され翌年転向。9年処女作『癩』が『文学評論』に発表され、認められた。11年『文学界』同人。12年『再建』を刊行したが、発禁処分。『生活の探求』で北村透谷記念文学賞受賞。『礎』『赤蛙』『黒猫』などがある。







 私はあたりが急に死んだやうに静かになつたのを感じた。事実にはかに薄暗くなつても来てゐた。私は歩きながらさつきからのことを考へつづけた。秋のタベ、不可解な格闘を演じたあげく、精魂尽きて波間に没し去つた赤蛙の運命は、滑稽といふよりは悲劇的なものに思へた。彼を駆り立ててゐたあの執念の原動力は一体何であつたのだらう。それは依然わからない。わかる筈もない。しかし私には本能的な生の衝動以上のものがあるとしか思へなかつた。活動にはひる前にぢつとうづくまつてゐた姿、急流に無二無三に突つ込んで行つた姿、洲の端につかまつてぽつとしてゐた姿、−−すべてそこには表情があつた。心理さへあつた。それらは人間の場合のやうにこつちに伝はつて来た。明確な目的意志にもとづいて行動してゐるものからでなくてはあの感じは来ない。ましてや、あの波間に没し去つた最後の瞬間に至つては。そこには刀折れ、矢尽きた感じがあつた。力の限り戦つて来、最後に運命に従順なものの姿があつた。さういふものだけが持つ静けささへあつた。馬とか犬とか猫とかいふやうな人間生活のなかにゐるああいつた動物ではないのだ。蛙なのだ。蛙からさへこの感じが来る、といふこの事実が私を強く打つた。

(赤蛙)



 

 農民運動に従事、共産党に入党、三・一五事件で検挙などを経て転向。求道的な帰農をテーマにした『生活の探求』はベストセラーになったが、終戦の翌々日の昭和20年8月17日午後9時42分、宿痾肺結核のため老母・夫人・川端康成・小林秀雄・中山義秀・久米正雄・高見順等に看取られ、鎌倉養生院清川病院で死んだ島木健作はストイックな作家であった。
 『文学的自叙伝』に〈私のなかの坊主的名性質、享楽的なものを罪悪視してしりぞけ、欠乏に堪え、身を苦しめて励むといった、聖道門的なものへの憧れみたいなものは早くから顕著であり、それは一般に小説というものの雰囲気とは一致しないところがあるのだった。〉と書いたように、その特異な時代でしか生まれなかったであろう作家であった。



 

 蜜柑の木の下、紫陽花の葉影に埋もれて苔生したちいさな墓碑があった。
 「島木健作之墓」、「昭和二十年八月十七日歿」と刻まれたこの墓の主は終戦の報を聞いて〈これからやり直しだ〉といって死んだ。その夜、蒲団ごと担架に載せられた島木の遺体は前を小林秀雄が手を添えて島木の友人三浦某が、後ろを中山義秀が担ぎ、久米正雄と高見順が助けた。里見弴と川端康成が持つ提灯で足元を照らされて、鎌倉の谷戸奥の小林秀雄の住んでいた真向かいの自宅へと運ばれた。2日後の19日、自宅での葬儀のあと23日、鎌倉文士たちの生活難解消のため設立された貸本屋「鎌倉文庫」で告別式が行われた。
 ——陽当たりの悪い塋域の空間に、求道的な精神で生涯を送った作家の姿が、幽淡と浮かび上がってくるような時がたった。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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