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Smoky Medicine (1973〜1974)
[MEMBERS]
Guitar : Char
Bass : 鳴瀬喜博(後に金子マリ&バックスバニー、カシオペアに)
Drums : 藤井章司(後に尾崎亜美バンド、一風堂に)
Keyboards : 佐藤準
Vocal : 金子マリ(後に金子マリ&バックスバニー、ヴォイス&リズム、そして・・・)
バッド・シーンを解散させたチャーが鳴瀬とショックのメンバーであった佐藤準そして藤井章司の4人が母体となり「あれをやる、これをやる」と半年位ミーティングなどしながらカクタスなどハードなロックンロールのコピーをやっていた時、チャーは面識があった金子マリを誘い、その後も「あれをやる、これをやる」とミーティングしながら「オレたち真剣だから」と1973年8月の終わり頃、菅原の山小屋で合宿を行い、ヴォーカルモノの第2期ジェフベックグループやクール&ザ・ギャングをコピーしながらスモーキーメディスンは形成されていった。
ライヴ活動はシーズンは学園祭、夏場は内田裕也の企画するロック・コンサート、冬場は渋谷の"黒い瞳"などキャバレーで専属バンドとして演奏していた。しかしキャバレーではチャーは高校に通うという理由で勘弁してもらったとのこと。それからチャーが個人的に活動していた白石かずこなどの詩人が池袋のパルコの屋上などで行っていた詩の朗読との即興演奏にもスモーキーメディスンで何日か行っているらしい。
1974年3月のある日、渋谷の三浦ピアノのスタジオで練習していたところ、内田裕也が訪れた。
その内田裕也に気に入られ、フラッシュ・コンサートに出演したりニューミュージック・マガジン誌74年5月号にインタビュー記事が掲載されたりした。
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ニューミュージック・マガジン誌74年5月号
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ヤングギター誌74年7月号
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一番有名なレパートリーの一つに"Joy To The World"があるが、これはロックを全く知らなかった佐藤準に「準がやりたい曲でなんかポップスでない?」と言って彼が持ってきたのがこの曲であったとのこと。
またPink Cloudの84年12月18日の大阪厚生年金会館中ホールや85年 1月30日のPlain Pink at 渋谷公会堂のライヴで演奏されOfficail VTR "ピンク・クラウド"に収録されている曲"Never Ending Road"はスモーキーメディスン時代のレパートリーである。当時のヴォーカルはもちろん金子マリでかなりアレンジは違っていると85年当時のインタビュー記事でチャーが語っていたような記憶がある。
当時のスモーキーメディスンの音が聴けるレコードがある。
一つは1974年発売の2枚組レコード「ゴーゴー大パーティ第4回」ロックインパルス(キング・レコードKM1269/1270)
 の演奏者である「上田力とザ・キャラバン」そして「マイティーマウス」で、後者の「マイティーマウス(Mighty Mouse)」がスモーキーメディスンである。
そしてエレック・レコードのロック・シンガー富田一郎のアルバム"STEP TO THE WAY"、生田敬太朗のレコーディングで演奏しているのがスモーキーメディスンである。
ここだけの話(でもないけど)であるが国会図書館にそのレコードがあり試聴が可能らしい。
そして74年の夏、チャーと金子マリの音楽的部分というよりも私的なプライヴェートな部分での対立でスモーキーメディスンの解散が決定した。
1974年8月10日、日本ロック史上に残るコンサート、郡山の「ワンステップフェスティバル」(福島県郡山市開成山公園)。ヨーコ・オノやサディスティック・ミカ・バンドなどが出演した「郡山ワンステップ・フェスティバル」のパンフレットに出演者の一つとして記載されていたが一週間位前に出演が取りやめになった。名古屋で行われた上田正樹&サウス・トゥ・サウス、ジョー山中とのジョイント公演を最後に活動を終えた。
ライヴ
日付 | 名義 | タイトル |
1973年11月 3日(土) | Smoky Medicine | エレクトリック・オールナイト・ショー at 埼玉大学 |
1973年12月 | Smoky Medicine(除くChar) | 渋谷・井の頭線横のキャバレー「黒い瞳」にハコ。 1日だけ都合で来れない鳴瀬に変わりCharがベースを弾いたとのこと。 |
1974年2月??日 | Smoky Medicine | 法政大学学生会館コンサート |
1974年2月? 5月? | Smoky Medicine | スタジオ・デモ at エレックレコード |
1974年 2月27日(水) | Smoky Medicine | 横浜市民ホール |
1974年 3月31日(日) | Smoky Medicine | 第2回フラッシュ・コンサート at パルコ西武劇場 |
1974年 4月??日 | Smoky Medicine | 第1回 日比谷ロックンロール・ストリーク at 日比谷野外音楽堂 |
1974年 5月19日(日) | Smoky Medicine | 第2回 日比谷ロックンロール・ストリーク at 日比谷野外音楽堂 内田裕也、ジョー、ミカ・バンド、四人囃子、サンハウス、ハルオフォン、ファニーカンパニー、クリエイションなどと出演 |
1974年 6月21日(金) | Smoky Medicine | 御茶ノ水 日仏会館 対バンはシュガーベイブ |
1974年 6月22日(土) | Smoky Medicine | 四人囃子コンサート・ツアー at 大宮市民会館にゲスト出演 |
1974年 6月25日(火) 1974年 7月17日(水) | Smoky Medicine | ホーボーズ・コンサート at 池袋シアターグリーン |
1974年 7月20日(土) | Smoky Medicine | 名古屋で上田正樹&サウス・トゥ・サウス、ジョー山中とのジョイント公演。これが最後のライヴ。そして解散。 |
1974年8月10日(土) | - | 「ワンステップフェスティバル」(福島県郡山市開成山公園)のパンフレットにSmoky Medicineが記載されているが解散により出演せず。 |
手元にある資料「日本ロック大全('87年出版)」などにも「楽器を買うためにネズミ講をやり友達を失った」など書かれているし、99年8月27日に二子玉川アレーナホールで行われた斎藤ノブのライヴでの「ノブの部屋」コーナーでのトーク・タイムで当時のことを面白おかしく語っている。
ライヴやラジオで語った思い出話
78年9月14日のTBSラジオ「パックインミュージック」
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78年9月14日、TBSラジオ番組「パックインミュージック」にピンチヒッターでDJとしてチャーが出演した時、ゲストに金子マリを迎えた。
その時、金子マリを紹介がてら思い出話をする二人であった。
マリ曰く、高校3年の時(チャーは高校2年の時)にデパートの屋上で演奏していたキャロルを観に行ったらチャーも来ていて、「今度、電話でも。じゃぁまた」と適当に挨拶して別れ電話をしたところ「今度、バンドやるから、唄えって。いきなり山奥の合宿に連れて行かれて」
それに続けてチャーがパーソナリティらしく時系列に出会いを話し始める。
普通の女の子だったマリが日比谷野外音楽堂でコンサートがあり、チャーはバンドを解散するために2つのバンドを掛け持ちして出演した時、トリから2番目にサユリ・バンドが出てきてそこに髪の毛グッチャグチャの何だあれという感じのが出てきたら「コードダジュール」を歌って、彗星のごとく現れたのですよ。
それからしばらく忘れていたのだけど、雨の日、東京は渋谷のデパートにリーゼントにロンドン・ブーツを履いて女の子へのプレゼントを買いに行ったところ、キャロルが屋上で演奏していて観に行ったら偶然会って
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「あなた、チャーじゃない」
「あなた、マリちゃんじゃない。マリちゃん、バンドやってるんですか?」
「私、学生だし、関係無いし、別に歌は唄いたくないし。」
「マリちゃん、どんなの聴いているの」
「私、PPMとかフォーク調のが好きだから」
「あっそうですかで」一応電話番号交換して「今度もし何かあったらジャムセッションでもして唄わない」
なんて言ったのですよ。
それから半年位、忘れていて、そして男4人集めてSmokyMedicineというバンドをやろうとした時、上手いヴォーカルが欲しかった、インストゥルメンタルのバンドにしようか、10曲中2曲唄おうかとチャーの実家で男4人でミーティングしていた時に電話が鳴って
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「マリですけどチャー君いますか?」
「僕ですけど、マリって誰?」
「この間、キャロルの屋上で会って電話番号をきいたりして」
「あの時のマリちゃん、どうしてたの?ビックリしたじゃない」
「バックコーラスでいいから唄わせてくれないかなって思って」
「バックコーラス?、今、偶然、新しいバンド組もうと思って集まっているんだけど、もしOKになったらやってくれるわけ。」
「もちろんやるわよ」
「何がバックコーラス、リードボーカルでやって欲しいな。それじゃメンバーに話すからまた明日電話するよ。」
そして電話を切ってメンバーのところに戻り「吉報だよ、吉報。凄いボーカルの女がいるんだよ。」。そしてみんなの声ね。
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「お・ん・な?」
「カッタルイジャン、オレ、女、嫌なんだよな。バァロォ」
という男が1人いましてね、佐藤準という世界のアレンジャーになった男でしてね。
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「バカ、本当にいいんだから」
「カッタルイんだよな、女、入るといろいろよぉ。オレなんか男でバンドやりたいしよ、女、関係ねぇじゃん」
「絶対、上手いから、信用してくれよ。」
そして翌日、下北沢駅の南口でメンバーとご対面となった。
99年8月26日の斉藤ノヴ
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99年8月26日に行われた斉藤ノヴのSpecial Night In Arena "宴" at 二子玉川アレーナホールにチャーが出演した時、斉藤ノブとのトークコーナーで思い出を語っている。
Peter Greenと共演した「99年4月18日 ワン・ナイト・スタンド・スーパーセッション at 赤坂ブリッツ」に出演した時、ジョー山中、ミッキー吉野、エディ藩、ジョニー吉長など共演者全員が年上で(本人曰く)気兼ねしてスタッフルームにこもっていたら、内田裕也が来てスタッフルームから楽屋に戻されてしまったり、Peter Greenを観ようと思っていたら内田裕也に呼び集められ昔話が始まってしまったこぼれ話の後、当時の話が始まった。
渋谷の三浦ピアノか斉藤ピアノで練習していた時、突然、内田裕也が入ってきて「ユー達グッド」。でも16歳位で無茶苦茶ツパっていたから突然入ってきたことに文句を言ったところ「下で待ってる」と言い残して出て行ったそうだ。
「ところで下って何処なんだろう?」でナルチョ、マリ、チャーの3人が喫茶店を覗きやっと見つけて聞いた話が「今度、渋谷のパルコの上の西武劇場でコンサートをやるから出演しろ」と。「しかしオマエラ楽器がショボイ。何が欲しい」と言われHIWATTやハモンドオルガンなどが欲しいと言うと「大体400万円くらいか。よし沢田研二に200万、カミサンに200万借りるか」でがっくりきて結局自分達の楽器で演奏したとのこと。 そのライヴでかまやつひろしなどに出会いニューミュージックマガジン誌に紹介してもらったりした。
チャーが高校3年の時、佐藤準や金子マリなどは高校を卒業し、ナルチョは既に24歳で生活のためチャー抜きのSmokyMedicineで渋谷の井の頭線側にあったキャバレー「黒い瞳」に出演した。ナルテョの提案で金子マリに口紅程度の化粧をさせたり、父親の仕事の関係で中学生の頃からトラでキャバレーに出演していた佐藤準は当時から30歳で通し店の女の子への挨拶は「元気?」でお尻を触る場慣れした19歳であったそうだ。
バンド解散の頃は、R&Bをやりたいチャー達とハードロックをやりたいナルテョの方向性の違い、クラヴィネットとエレピが欲しくネズミ講に佐藤準とチャーが入り渋谷で勧誘したりしていたが佐藤準は子が出来ずバンド内で親になったりという状況であったとのこと。
83年のアルバム"Moon Child"での再会
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その後、83年2月にリリースされたアルバム"Moon Child"(バップ CD:VPCC-81020)に同窓会的に再会し、"Joy To The World"とチャーがそのスモーキーメディスンのために新たに書き下ろした新曲"Show What You've Got Inside Of You"をレコーディングしそのアルバムに収録された。
74年当時はチャーと佐藤準そして藤井章司は黒人音楽にはいりこみ、当時の鳴瀬はハード志向で「ソウルはいつでもできる」と意見の相違があったようである。そして時は流れ10年後、そのアルバム"Moon Child"のプロモーションで渡辺香津美が司会をするラジオ番組に出演した時、新曲"Show What You've Got Inside Of You"を聴きながら「当時、あの人がハードロックやりたいと言って、それ以外の若い4人がファンクやりたい黒人音楽やりたいと言っていたのですが、皆さん、聴きました?。一人でトトトトトッてチョッパーやっているのは誰ですか。この間、鳴瀬と会ったら「オマエだって今はハードやっているじゃん。」と言われましたけど。」と当時を思い出していた。
余談であるが73年位にニューミュージックマガジン誌などで今野雄二氏か加藤和彦など新し物好きが「レガア」を紹介していた。しかしボブ・マーレイが流行った77年頃には「レゲエ」で一般化していた。ところがこの番組内でレゲエが話題になったがその時もチャーは「レガア、レガア」と言い続けていた。時はさらに流れ99年4月の北海道のFM番組"DONBURI MOOD"では「レゲエ」と言うお茶目なチャーであった。発音だから現地語がどちらの表現が正しいのか知らないけど。
セイヴ・ザ・アース
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そして時は流れ20年後、藤井章司氏が関係する「セイヴ・ザ・アース」の企画でスモーキーメディスンとしてライヴを行っている。
第11回 北沢音楽祭に出演
スモーキーメディスソ
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2001年 7月 7日(土) 第11回 北沢音楽祭での25年ぶりの再演をきっかけに、Charがこの頃、年末恒例としていた東京オピニオンズ・フェスティヴァル Special LiveにおいてSmoky Medicineを企画した。
しかし佐藤準が不参加のためメンバーが洒落を入れて「スモーキーメディスソ」名義で活動を行う。
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テレビ朝日の企画で70年代邦楽ロックのバンドを集めて行った「ROCK LEGENDS」ライブ・シリーズ。
多分、当時の若者が年を重ね社会や会社でそれなりの地位となり企画したのであろう。単にノスタルジーでないロックな音楽を企画側も観客側も楽しむ良い企画であった。その第1弾として「四人囃子 vs スモーキー・メディスソ」と銘打って行われた。
最後のSmoky Medicine
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2002年4月に続き「テレビ朝日開局50周年記念の特別企画」
- 4月18日 FOLK LEGENDS 伊勢正三 LIVE 2008 featuring 風 guest 大久保一久
- 4月19日 ROCK LEGENDS CREATION、四人囃子
- 4月20日 ROCK LEGENDS Smoky Medicine
が開催された。
残念ながら4月18日の風の復活は直前に大久保一久が体調不良により中止となった。
2002年4月は佐藤準が参加しない、かつ2部構成「第1部が四人囃子。そして第2部がスモーキーメディソ」であったが、今回は単独企画かつ5人揃ってのコンサートであった。
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そして
Guitar : Char
Bass : 鳴瀬喜博(後に金子マリ&バックスバニー、カシオペアに)
Drums : 藤井章司(後に尾崎亜美バンド、一風堂に)
Keyboards : 佐藤準
Vocal : 金子マリ(後に金子マリ&バックスバニー、ヴォイス&リズム、そして・・・)
の5人よる本当に最後のコンサートとなった。
その後
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1954年4月7日に生誕した藤井章司。2009年2月6日に急性心筋梗塞のため埼玉県春日部市の自宅で死去した。54歳。
2010年3月28日(日)に発売されたアルバム「TRADROCK Jeff by Char」の内ジャケットには
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Song Selected for FUJII SHOJI
とクレジットされている。
ニューミュージックマガジン誌 74年5月号
「期待の新グループ、スモーキー・メディスン」
というタイトルに「駐車禁止」とペイントされた閉じられた店舗のシャッター前で笑顔の頭を右に傾けた金子マリの全身写真、同場所で気ままに立つメンバー5人、ポーズするチャーの全身写真、メンバー5人の集合写真の4枚の写真と共に5頁に渡って特集されている。チャーはお決まりの帽子に革ジャンとジーパンという井手たちで3枚中2枚でタバコをくわえている。
はじまりは1本のテープからだった。
3月のある日のこと、ニューミュージック・マガジンの事務所に3人の若者が現れた。ひとりは、半年ばかり前に、新しいグループを結成したという知らせを持って来たことがある成瀬ヒロ君。今日は、自分たちのグループのデモ・テープを持ってきたのだという。もうひとりの男はグループのマネージャーの吉永君。そして事務所に入ってからずっと、身をもてあまし気味にキョロキョロとあたりを見回したり、タバコをプカプカふかしたりしている小柄な女のコが、うわさの下北沢のジョプリンこと、金子まり嬢だった。
うわさのということでは注釈しておく必要がある。去年の10月号に掲載された手塚実さんの記事「ロックハウスOZの12ヶ月」を読まれた方は、その中に金沢で行われた"夕焼け祭り"のことが書かれていたのをおぼえているかもしれない。「下北沢のジョプリン、マリちゃんに南さんはホレちゃったそうだけど、あれじゃ誰でもそうなっちゃうんじゃないかなあ。もうセクシーで腰をグラインドさせて歌う姿は、そのものズバリで、ボクの8ミリはずっと彼女のお尻を追っていたのだから」というのがその時の記述。だがその時はそれ以上詳しいことはわからなかった。彼女はまだ歌の好きな一高校生にすぎなかった。
彼女の名前が金子まりであること、彼女が新しいグループに入ったことを知ったのは、つい最近になってからのことだ。そして、その演奏をきいた人たちから、いいグループが現れたという話を、あちこちできかされるようになったその矢先、彼らが事務所にやってきたのである。
で、さっそくその場でテープをきいてみたところ、コンパクトにまとまったシャープな演奏と、パンチがありストレートに飛び込んでくるボーカルのバランスの見事さに、思わずむむっと身を乗り出してしまった。
そのテープに入っていたのは英語のオリジナル曲が多く、しかも見事にサマになっているのである。ふつう日本のグループが英語の歌をつくっても、なかなかリズムに乗った歌になんかならない。それは、日本語では乗りにくいけど、英語でうたったら乗りやすいだろう、といった次元の問題ではないのだ。
彼らのように切れのいいカラッとしたリズムを持ったグループは、ほんとうに珍しい。金子まりのボーカルも、うたいはじめて半年あまりとはとても思えないほど度胸たっぷりなところがある。下手をするとすごくシラケかねない「ジョイ・トゥー・ザ・ワールド」のような曲を、なんなくさらっとやってのけているところも驚きだった。
そしてよっぽどのことでなければ食指を動かされないとうようさんまでが、デスク・ワークを中断して、彼らのすわっていたテーブルのほうをふり向いて、「この歌をうたっているのは、キミ? へえーっ。すっごくうまいねえ」と言い出したのである。その彼らが、スモーキー・メディスンだった
まずメンバーの名前と担当の楽器を紹介しておこう。
金子まり ボーカル 19歳
CHAR ギター ボーカル 18歳
佐藤準 キーボード 19歳
成瀬ヒロ ベース 24歳
藤井しょうじ ドラム 19歳
金子まりを除く4人は、それぞれ、カルメン・マキとOZや、バッド・シーンや、ショックというグループに籍を置いていたこともあるが、現在の彼らはそれらのグループから受けるイメージとは、すっかり変わっている。自分たちのやりたい音楽を求めて集まったのだから、それは当然だろう。そしてメンバー全員、第2期ジェフ・ベック・グループの大ファンだ。
彼らの当面の悩みは、楽器(音響設備)のないことと、生演奏の場が少ないことだ。それまで演奏したのは、コンサートが数回だという。仕方がないので、みんなアルバイトしたり、エレック・レコードのスタジオ・ワークをやったりしてきている。
さて、そんな彼らの取材を、内田裕也さんにおねがいすることになった。まず彼らのテープを聞いてもらった。ところがこちらから渡す前に裕也さん自身、友達から彼らのテープを渡されて、きいていたのだそうだ。以下、裕也さんの話をきいてみた。
「まだ粗いミキシングだったし、あまり期待もせずに、ウチの風呂できいていたら、意外とよくて、"ストレンジ・スペイス"とかオリジナルには面白いものがあるなと思ってね、いくらかむこうの曲に似ているところもあるんだけれども、それはみんな多少はそうなんだし、気にするほどでもないでしょう。ボーカルは、麻生レミとジャニスの中間みたいな感じで、オッという感じで気はひかれたんですけれど。で、取材をとうようさんから頼まれて練習風景を見に行ったわけです。楽器屋の3階で、アンプもエース・トーンのしょぼいのだし、音はそんなに期待しなかったけれど、パッと聞いた時になんかいけそうだなって感じがしたんです。
ぼくがボーカルをやっているので、まずボーカル、それにギターが目についたんだけれどじっくり聞いてみたら、グループの音楽の方向性の統一みたいなものも、争いもないようだったし、メンバーと会って話をした時も、みんなフテッてなくてよかった。
その後すぐに感想を書いてほしいということだったけど、ぼくはやっぱりライヴ・ステージということにすごくこだわるんですよね。昔のはっぴいえんどじゃないけれど、スタジオ録音だけでいいグループで、ライヴじゃつまんないというのはどうもね。肌であらわした音楽というのをさらにレコーディングのテクニックで中和できるということじゃないとね。
ちょうど西武劇場で第2回のフラッシュ・コンサートをやる前だったから、バンドの数は増えるけど、30分か40分だったら余裕があるので強引に突っこんで出てもらうことにしたんです。70%くらいはだいじょうぶだと思ってたんだけれど、回りがやぱっり日本でそうそうたるメンバーだからね、そういうところでの初めてのステージには、一種のあせりなんかがあるんじゃないかと出番なんかにも気を使って、アンプもハイワットやマーシャルを用意したり、ミキシングも手伝ったりね。独自のサウンドを出してほしかったから。
ライヴのステージとしては、はっきりって、ぼくが期待してたほどの満足はなかったけれど…、まだちょっとガキっぽいところがあるからね。そのへんが裏目に出る時と、いい時があるから。でも、センセーショナルなデビューの仕方はしたんじゃないかとね。
演奏はギターがズバ抜けてよかった。まあ難をいうと、曲を十分に消化しきってないところがあるから、ビタッといくところは別だけれど、リズム・セクションがたまに崩れを見せるところがある。でもまぁ初めてのバンドだったら、ほんと、90点ですね。
まわりでカップスの連中なんかも見てたから、気負いが目立ったけどね。あとね、ステージでは最後に盛り上げる工夫てのかな、ほしいですね。観客の中ではまだアマチュアっぽいという人もいたけど、関係者は、ムッシュなんかも、ギターとは俺も1回やってみたいなんていってたし、全体に好評だったですけどね。将来性はあるけど、まだ未完成だから、回りでもあまりおだてないで、ぼくも言うところはシビアにビシっと助言したいと思ってます。
彼らの音楽は、R&Bや、ロックン・ロールや、ブルースなどをミックスした音楽だから、これからどういう方向へ持っていくのかなという不安があります。まだみんな若いし、ボーカルの英語のイントネーションなんかも悪くないから、可能性のあるグループだという気はものすごくしたんですけれど。
ぼく自身は麻生レミの怨念みたいのがあって、日本の女でロックを本当にやってるのは今じゃカルメン・マキしかいないでしょ。そういう意味でも、メンバーさえよければ、自分でプロデュースしたいですね。サウンドの面でいじりたくはないけれど、バックのフォローをやりたいですね。
まあ、今度のコンサートの中で初めてのグループとしては、このグループと四人囃子とがショックだったね。今年あたりは少し日本のロック・シーンも変ってくるんじゃないかな。そのためにもグループとも音楽的にも金銭的にも、お互いのメリットをはっきり了解しあえるような関係のプロデューサーになれるよう力を入れていきたいですね。」
4月と5月に日比谷野音のロックンロール・ストリーク・コンサートにも出る予定がさっそく決まった彼らの今後に期待しよう。
(以上、ニューミュージックマガジン誌 74年5月号145頁から5頁を引用)
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