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目次
プロローグ
キャニオンの頃のJohnny,Louis,& Char
Pink Cloud
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- バップの頃のPink Cloud
- 東芝EMIの頃のPink Cloud
- 江戸屋の頃のPink Cloud
the Peirod後
エピローグ
1976年にレコード・デビューし、翌1977年には日本の歌謡界・芸能界に場を広げ、良くも悪くも日本のお茶の間と歌謡界・芸能界にロック、後年のニューミュージックやJ-Popに繋がる道を切り開いた。
しかし歌謡界・芸能界に消耗を余儀なくされ、1978年のGodiegoとの活動で個人活動のシヴィアさを味わったチャーはミッキー吉野の紹介により加部正義、そして旧知のジョニー吉長と78年の秋にバンド"Johnny,Louis,& Char"を結成する。
そして三重県は合歓の郷にて2回に渡り合宿を行い12月28日に予定されていた中野サンプラザホールで行われる"Johnny,Louis,& Char Ultra Concert"の準備を進めるのであった。
合宿の合間である11月3日には文化庁主催の'78ミュージックフェスティバル「芸術祭奨励コンサート」 at NHKホールの収録で初お披露目も終えた。
しかし12月5日の新聞記事により活動を中断せざるえない状況に追い込まれた。
当時のことはファンクラブの会報「EDOX」と「DIBS」に連載されていた「Char's Perfect History」の第2回(EDOX Vol.24)で語られている。
中断を余儀なくされたチャーを立ち直させるきっかけの一つにカルメンマキ・バンドへの参加があった。
そしてJohnny,Louis,& Charの活動の幕開けに1979年7月14日(土)日比谷野外音楽堂でフリー・コンサート、そして東京と大阪のライヴハウスでシークレット的にライヴが行われた。
1979年11月21日に1979年7月14日(土)日比谷野外音楽堂でフリー・コンサートのライヴの模様から制作された限定ライヴ・アルバム「Free Spirit」が発売された。
そして秋からは愛知、大阪、神戸、立川、そして武道館とRCサクションを前座に迎えにツアーを行うと共にチャー自らオーナーの事務所"SPACED OUT"を興し、ファンクラブ"PAPER MAGIC"(6ヶ月分の会費1200円で会報は2ヶ月に1度3回発行)も79年12月1日付けで発足した。
その活動は年表〜1979年〜に掲載する。
1980年になりJLCもいよいよ本格的に活動を開始した。
2月4日〜8日に一口坂スタジオでレコーディングされたシングル「Song In My Herat / Balcony(両A面扱い)」(キャニオン W-19)が4月21日に発売された。
そして3月10日〜27日に同じく一口坂スタジオでレコーディングされたアルバム「Tricycle」(キャニオン)が5月21日に発売された。
10月にはL.A. 市政施行200周年フェスティバル at タイムズプラザの出演し、その出演をきっかけにプロデューサー業をしようとしていたスティーヴ・ルカサー達の白羽の矢が当ったCharは秋のツアーの合間の1週間で単身アメリカに向かった。
場所はロサンゼルスはサンセット通りにあるスタジオ。
毎日お昼の1時に始まり夕方6時までスタジオ入りし、初日に"Give Me Sometime","Nice Changes","You Can't Have Me"の3曲のオケを、2日目に"Cry Like A Baby","Street Information","Smoky"の3曲のオケを録り、ギターをスティーヴ・ルカサーと重ね5日間でレコーディングした結果が翌81年2月に発売されたCharのソロ・アルバム「U.S.J(Ultra Speed Job)」(キャニオン)である。
1979年7月14日(土)に"Free Spirit"でJLCは活動を開始したものの想像以上に厳しく解禁問題がのしかかりJLCの曲がラジオでON AIRされたのはChar自らDJを務めるラジオ関東「電撃ワイドうるとら放送局」での分が殆どの10数回であった。
その活動は年表〜1980年〜に掲載する。
1981年2月16日にロサンゼルス入りしサンタモニカで3日間遊び呆けてた後、サンタモニカからフリーウエイで40分位のノース・ハリウッドにあるリーズ・スタジオでリハーサルを2日間行う。そして渡米7日目からサンタモニカに戻りユニバーサル・シティのダブリン・スタジオでレコーディングを1日2曲のペースで行う。その結果No Goodだったらしいアルバム「OiRa」(キャニオン)が1981年6月21日に発売された。
1981年も精力的に活動したJohnny,Louis,& Charであるが、1981年の最後のライヴとなった12月23日(水)横浜教育会館で、「今日でウチのバンド、解散することになりましたので。」で始まる意味深なMCで仕事を終えるのであった。
その活動は年表〜1981年〜に掲載する。
1979年から1980年までのことはファンクラブの会報「EDOX」と「DIBS」に連載されていた「Char's Perfect History」の第3回(EDOX Vol.25)で語られている。
1982年にレコード会社をキャニオンからバップに移籍するに伴い、81年12月23日 横浜教育会館のライブを最後にJohnny,Louis,& Char名義からPink Cloud名義にバンド名を変更した。
このバンド名Pink Cloudはマーちゃんがアメリカはバークレーでお世話になった人の通称(奥様がシルバースター)で、1981年の東北ツアー(11月10日の仙台公演と推測する)での移動する午後の在来線特急(当時、東北新幹線は開業前)の食堂車でマーちゃんが口にしチャーが気に入ったからである。
1982年5月21日にPink Cloud名義の最初のシングル「Everyday,Everynight」(バップ)が発売された。
1982年5月21日にPink Cloud名義の最初のアルバム「KUTKLOUD」(バップ)が発売された。
そしてPink Cloudはライヴを精力的に活動しながら1982年9月21日にはアルバム「CLOUD LAND 桃源郷」(バップ)が発売された。
更に1982年11月21日にはCharのソロ・アルバム「MOON CHILD」(バップ)が発売された。
その活動は年表〜1982年〜に掲載する。
1983年にはチャーのプロデュースでジョニー吉長のソロ・アルバム「LOVE CHILD」(バップ)が1983年3月21日に発売され、続いて加部正義のソロ・アルバム「MOON LIKE A MOON」(バップ)が1983年7月21日に発売された。
この二人のアルバム制作のプデュースを行った結果、チャーは歌うジョニー、ギタリストとしてのマーちゃんを再認識したとのこと。
その結果、バンド結成当時はチャーが曲を納得するまでアレンジし、凄い難しいことでも絶対に気持ちが良いからと説得していたが二人に敬意を示すように自分の考えを主張することをやめていった。
また1983年9月21日には金子マリのソロ・アルバム「MARI FIRST」(バップ)も発売されている。
この1983年もPink Cloudは精力的にライヴ活動を行いながら1983年12月10日にはPink Cloud名義のアルバム「PINK CLOUD」(バップ)も発売された。
並行して1983年5月にHulk Hogan & Itch-Band(Pink Cloud)名義でアルバム「ハルク・ホーガン」、1983年6月21日にアンルイスのアルバム「Heavy Moon」が制作、発売された。
その活動は年表〜1983年〜に掲載する。
1984年もPink Cloudは精力的にライヴ活動を行いながら1984年10月21日にPink Cloud名義のシングル「Sugar Baby Game」(バップ)を。
そして1984年11月10日にPink Cloud名義のアルバム「PLANT BLEND」(バップ)を発売した。
並行して1984年6月21日に中島優貴のアルバム「Inspire」が制作、発売された。
1982年に締結したVAPとの契約には移籍の条件の一つとして「2年間でアルバム6枚リリース」があった。
その条文は「ベストや各人のソロを合わせれば問題ない」と安易に考え契約したが、結局、Charは楽曲の提供やプロデュースなど全てに関わることになり心身共に消耗しきった結果となった。
その活動は年表〜1984年〜に掲載する。
1982年から1984年までのことはファンクラブの会報「EDOX」と「DIBS」に連載されていた「Char's Perfect History」の第4回(EDOX Vol.26)で語られている。
年が明けた1985年。
1985年 1月30日(水)に渋谷公会堂で"Plain Pink"と題したライヴで幕を開けた。
その日の模様は、1985年5月にとして発売された。
加部正義の認識では3月の香港のライブの後はバンドは解散し、Pink Cloudのことは忘れ、ゴールデンカップス時代の縁で東芝EMIから1985年12月21日に発売したソロ・アルバム「COMPOUND」の制作を開始した。
Charは自ら望んだとはいえ、好きなように創る音楽家とレコード会社との隔たりを打破すべく1984年をもって契約が終了したVAPから東芝EMIにレコード会社を移籍した。
Charは1970年代にThe Beatlesなどを担当していた石坂敬一氏にゼネラル・プロデューサー的な動きを期待したが1985年7月20日に移籍前に野音にてレコーディングした音源をPink Cloud名義のミニ・アルバム「aLIVE」(東芝EMI)を発売したのみで終わった。
しかしその半面、ミニ・アルバム「aLIVE」のレコーディングに先立ち加部正義はCharから「これで最後」と聞かされていた。
そして閉塞感?八方ふさがり感?に陥ったCharは単身、6月15日の29歳で日本を出国し、30歳を迎えた6月16日にイギリスに到着し3か月間ほど滞在する。
イギリス滞在中に気持ちを入れ替え、空っぽになった心身に新たな経験を吸収し続けた結果、江戸屋発足のきっかけになる楽曲の数々を創作しながら江戸屋の構想が芽生える中、帰国した。
加部正義は制作していたソロ・アルバム「COMPOUND」を1985年12月21日に発売している。
その活動は年表〜1985年〜に掲載する。
当時のことはファンクラブの会報「EDOX」と「DIBS」に連載されていた「Char's Perfect History」の第5回(DIBS Vol.1)に語られている。
また加部正義がネット上でエッセイ「気ままに生きる」でフィクションとして語っている。
1986年3月21日に忌野清志郎、ジョニー、ルイス&チャー名義でシングル「S・F」が制作、発売され、そしてアルバム「県立地球防衛軍(オリジナル・サウンドトラック)」にも収録された。
「Pink Cloudとして何度かライヴを行ったが、俺の頭の中ではもう解散していたからね。俺の中ではPINK CLOUDという残像の中での演奏だったから、何も考えずに自由気ままにできたよ。この頃の演奏はすごくいい演奏だったよ。」
と加部正義がネット上のエッセイ「気ままに生きる」でフィクションとして語っている。
その活動は年表〜1986年〜に掲載する。
2月17日(火)に行われたジョニー吉長のオール・ナイト・パーティ at Ink Stick芝浦で幕を開けた1987年。
江戸屋設立前夜でもある1987年は他のミュージシャンのレコード制作やライヴを中心に活動し、3人での活動はなりを潜めた。
この1987年の3人での表立った活動は、ジョニー吉長が名古屋、神戸で連日ライヴした翌10月30日(金)に神戸チキンジョージでJohnny,Louis,& Char名義でライヴ。そして年末に数回のライヴのみとなった。
その活動は年表〜1987年〜に掲載する。
1988年、1985年のロンドン滞在をきっかけに芽生えたインディーズの発想を具現化した江戸屋を設立する。
3月23日に江戸屋を設立後、1988年6月17日、85年のロンドン滞在から帰国した後、東芝EMIと契約しながら銀座Smoky Studioが営業しない空き時間を使用しエンジニアと共に録り貯めした楽曲を3月に設立したインディーズ・レコード会社の江戸屋からアルバム「psyche」をリリースする。
更に12月16日、江戸屋レコードから2枚目のソロ・アルバム「psyche II」をリリースすると共にそれらの楽曲でChar & The Psychedelixでコンサート・ツアーを行う。
そのため1988年のPink Cloudの表立っての活動は晩夏までとなった。
その活動は年表〜1988年〜に掲載する。
当時のことはファンクラブの会報「EDOX」と「DIBS」に連載されていた「Char's Perfect History」の第6回(DIBS Vol.2)に語られている。
1989年、1月23日、1月24日、そして1月25の3日間にわたりInk Stick 芝浦Factoryで開催されたライヴ「Pink Stick & Ink Cloud」の模様をDAT録音した音源(1月23日のライヴ)をもとにライヴ・アルバムが制作された。
それが4月21日に発売されたPink Cloud名義のライヴ・アルバム「Pink Stick」(江戸屋)、そしてライヴ・アルバム「Ink Cloud」(江戸屋)である。
1989年は1年を通しBAHOとPink Cloudのライヴ活動を行っている。
更に翌1990年4月21日に発売されたPINK CLOUD名義のアルバム「INDEX」のレコーディング、加部正義はCharから「PINK CLOUDとしては最後のアルバム」と聞かされのぞんだレコーディングが、4月、"Drive Me Nuts"を幕開けに開始された。
「Charからは1曲作ってって言われたから、「号外(GOGAi)」っていう曲を作った。このタイトルは「INDEX」が最後のアルバムですよって意味合いをこめて「号外」としたんだ。」
と加部正義がネット上のエッセイ「気ままに生きる」でフィクションとして語っている。
そして12月24日にPink Cloud名義の写真集「3×3」 特典シングル「Drive Me Nuts / Freedom」付き(江戸屋)を発売し、プロモーションの一つとして東名阪ツアーが行われた。
その活動は年表〜1989年〜に掲載する。
4月21日にPINK CLOUD名義のアルバム「INDEX」を発売するなど1990年も年間を通したBAHOの活動の合間にPink Cloudのレコーディングと3本のコンサート・ツアー
4月の"INDEX Tour"
6月の"3*3 Tour"
10月の"BRAIN MASSAGE Tour"
を行っている。
10月23日にPink Cloud名義のミニ・アルバム「B B Joke」(江戸屋)、そしてシングル「Without Love / Drive Me Nuts」(江戸屋)を発売した。
1990年10月31日(火) "BRAIN MASSAGE Tour" at 東京 代々木オリンピック・プールのライヴはビデオ「Brain Massage」として後日、発売された。また少しではあるがビデオ「江戸屋百歌撰四之巻」にも収録されている。
その活動は年表〜1990年〜に掲載する。
ところが1991年は、前半こそ昨年の勢いの余力か活動するも5月の"BRAIN MASSAGE 2nd Tour"を最後に表舞台から消え、チャーはBAHOの活動に専念する。
その活動は年表〜1991年〜に掲載する。
1992年には「セ●ス・レスの家庭内別居となっている夫婦」のような状態になったPink Cloud(Johnny,Louis,&Char)。
主催者からの強い要請と江戸屋からの意向か1年ぶりに夏のイベント「1992年7月31日(金)に横須賀ポートランドで行われたぴあ20周年記念野外フリー・コンサート」に1回だけ出演し演奏した。
その活動は年表〜1992年〜に掲載する。
1993年もセ●ス・レスの家庭内別居となっている夫婦のような状態のPink Cloud(Johnny,Louis,&Char)。
主催者からの強い要請と江戸屋からの意向か1年ぶりに夏のイベント1回、そして東京、名古屋、大阪で開催された江戸屋祭に出演し演奏した。
その活動は年表〜1993年〜に掲載する。
当時のことはファンクラブの会報「EDOX」と「DIBS」に連載されていた「Char's Perfect History」の第7回(DIBS Vol.4)に語られている。
Pink Cloud "the Period & Free Spirit '94"
1994年、長年「セ●ス・レスの家庭内別居となっている夫婦」のような状態のPink Cloud(Johnny,Louis,&Char)に対し、いよいよ決意したChar。
1993年末か1994年初、横浜の本牧へ、下北沢へ一人で会いに行き、1994年8月24日に発売されたアルバム「the Period」(江戸屋)を制作した。
「タイトルはCharが決めたんだ。だけど「the period」ってタイトルは、俺は好きじゃなかった。東芝EMIからPINK CLOUDで「aLive」を出した時にも、その時が“period”だと思っていたし、その後の「INDEX」でも“period”だと思っていたからね。わざわざ“period”ってつけることもないと俺は思ったんだ。アルバム「the period」は“三度目の正直”だね。」
と加部正義がネット上のエッセイ「気ままに生きる」でフィクションとして語っている。
そのアルバム「the Priod」にあるPink Cloudの普段はなかなか観ることが出来ないもう一つの世界のようなライヴを1994年9月16日(金) 武道館で行った。
そのライヴの終演後の武道館で、翌9月17日(土)に日比谷野外音楽堂で開催された"Free Spirit"と題されたチケットが無料で配布された。
そして1979年7月14日(土) 野音で始まったPink Cloud(Johnny,Louis,&Char)は1994年9月17日(土) 野音で終わりを迎えた。
その活動は年表〜1994年〜に掲載する。
当時のことはファンクラブの会報「EDOX」と「DIBS」に連載されていた最終話となる第8回(DIBS Vol.5)に語られている。
なお1994年9月16日(金)の"the peropd" at 武道館の模様を収めたビデオ「1994.9.16 "the period" at 日本武道館」(江戸屋)と、翌9月17日(土)に日比谷野外音楽堂で開催された"Free Spirit"の模様を収めたCD「Free Spirit 1994」(江戸屋)が、さらに1979年7月14日(土)に日比谷野外音楽堂で開催されたFree Spiritと1994年9月17日(土)に日比谷野外音楽堂で開催されたFree Spiritの模様が収めたが、1995年1月に発売されている。
the Priod後も3人は機会がある度に演奏を共にしている。
1995年6月24日(土) Son's Of Blues Guitar Battle Night at 六本木 Pit Inn
1997年10月25日(土) Music Bazaar in 日比谷野音、1998年 9月19日(土)MUSIC BAZAAR 98 at 有明とジョニー吉長が企画したチャリティ・コンサートでライヴを行った。
1998年 3月22日 ジョニー吉長の49th Birthday Live at 渋谷クロコダイルで演奏を行った。
1999年 3月21日 やはりジョニー吉長の50th Birthday Live at 渋谷クロコダイルで演奏を行った。
2007年 3月21日(水) やはりジョニー吉長のGroupWide Super Live Vol.5 "J-58 Party" at 原宿Crocodileにて3人で演奏を行った。
2008年10月5日(日) 日比谷野外音楽堂で開催されたFlower Travellin' Band "We Are Here"の特別ゲスト(前座)として3人で演奏を行った。
2008年12月21日(日)、原宿クロコダイルにて開催されたGrounWide Super Live Vol.8 「グラウンワイド三周年記念大忘年会スペシャル」にてSilver Cloud名義で3人で演奏を行った。
2009年 5月 5日(火)、Shibuya Duo Music Exchangeにて開催された加部正義 還暦ライブ「加部正義 vs ルイズルイス加部」にて3人で演奏を行った。
1949年3月21日に福岡県(現在の北九州市小倉区)で生誕したジョニー吉長(本名:吉長 信喜(よしなが のぶき))。
2012年4月下旬、体調を崩し入院。同年6月4日4:54に肺炎のため死去した。63歳。
1948年11月5日に神奈川県横浜市で生誕したルイズルイス加部(本名:加部正義(かべまさよし))。
2020年9月26日に多臓器不全のため死去した。71歳。
2022年、1976年のレコード・デビューから45周年を記念したライブ第3弾として昭和女子大学人見記念講堂にてJohnny, Louis & Char と PINK CLOUD をフィーチャーした2DAYS公演が企画されている。
2022年11月18日(金) JLC session [Char 45th Tribute Live /Day1]
Char (Vocal, Guitar)
澤田浩史 (Bass)
ZAX (Drums)
ゲスト: 金子マリ
2022年11月19日(土) PINK CLOUD session [Char 45th Tribute Live /Day2]
Char (Vocal, Guitar)
澤田浩史 (Bass)
ZAX (Drums)
ゲスト: ミッキー吉野
「
2022.11.15|NEWS
Char 45th Tribute Live 2days 公演中止のお詫びとお知らせ
この度、11月12日に Char本人が発熱等体調の異変を感じ PCR検査を行ったところ、13日に陽性と判明いたしました。
そのため、11月18日(金)・19日(土) に 東京:昭和女子大学人見記念講堂にて予定しておりました「Char 45th Tribute Live 2days」は、中止とさせていただきます。
」
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