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デビューするならという年齢「20歳」になり、チャーにスタジオ・ミュージシャン、バック・ミュージシャン活動の仕事を廻していたヤマハ系のアーティストのプロデューサーなどを務めていた萩原氏(ファーストアルバム"Char"の内ジャケットに「Producer:Satoru Hagiwara」と掲載)の関係からレコード会社はキャニオン・レコード、山内テツと絵夢と共に発足したSEE SAWレーベルに決定した。
更に萩原氏はチャーをデビューさせるに辺り事務所コットンハウス(ファーストアルバム"Char"の内ジャケットに「COTTON HOUSE Music Ltd.」と掲載)を立ち上げ、やはりヤマハ系アーティストのディレクターを務める渡辺氏(ファーストアルバム"Char"の内ジャケットに「Director:Yuzo Watanabe」と掲載)も取締役として参画した。
そのデビュー直前のスタジオ・ミュージシャンかつバック・ミュージシャンとしての最後の仕事は、浜田良美とスペシャルリザーブのバンド・メンバーの一人として、サンハウスと共に「ザ・ツアー」というMCAミュージック主催のコンサート・ツアーで全国14箇所を廻ったことである。
日付 | 名義 | タイトル |
76年 4月26日(月) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 福島市公会堂 |
76年 4月27日(火) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 仙台市電力ホール |
76年 4月28日(水) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 青森市民会館 |
76年 4月29日(木) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 札幌市道新ホール |
76年 4月30日(金) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 札幌市道新ホール |
76年 5月27日(土) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 静岡市公会堂 |
76年 5月28日(日) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 名古屋市公会堂 |
76年 5月29日(月) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 倉敷千秋座 |
76年 5月30日(火) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 京都シルクホール |
76年 5月31日(水) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 大阪御堂会館 |
76年 6月 1日(木) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 奈良県立文化会館 |
76年 6月 3日(土) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 広島郵便貯金ホール |
76年 6月 4日(日) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 佐世保市民会館 |
76年 6月 8日(木) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 福岡少年文化会館 |
76年 6月 9日(金) | 浜田良美とスペシャルリザーブ | ザ・ツアー at 福岡少年文化会館 |
76年6月25日にシングル"Navy Blue / Shinin' You Shinin'Day"(キャニオン EP:W-1廃盤)でレコード・デビューした。
21世紀の今もその傾向はあるが、バンドのデビューはマイナーなバラード曲が商業的に好まれるようで、つのだひろのヒット曲"メリー・ジェーン"のような曲を要求されてNSPの天野滋の男女の別れの歌詞に、メロディを高いキーで付けたこの曲を「ものすごい"Smoky"とは反対側のチャー節なのかな。ホント初々しくて、なんでこんなキーで書いちゃったの?ってぐらい高いし。セックスアピールがある詩も好きだし。なんかデビューが別れの歌ってめずらしいよね。」
と96年のEDOX会報VOL.22「大河連載新企画 Char's Perfect History 第一回」にて語っている。
この曲は
「
佐藤準(Kbd)
???(西沢常治ことGeorge Mastichと推測するが)(B)
古田たかし(Dr)
カルロス・デクート(サイド・ギター:ポルトガル人) 本当は1st アルバム「Char」に向けバンド・メンバーになるはずがロバートとジョージからギターは1本という条件が提示され除外されたとのこと。(2022年10月28日発売 アルバム「Char 1976 Live」(ZICCA)のブックレットから。
」
とレコーディングした。
96年のEDOX会報VOL.22「大河連載新企画 Char's Perfect History 第一回」に
「アメリカ行く前に"Navy Blue"と"Shinin' You Shinin' Day"っていうのは出来てたね。っていうかシングル盤を作ろうと。その萩原さんと渡辺さんが・・・だからシングル盤の"Navy Blue"って、そのアメリカの、ファースト・アルバムのメンバーじゃないんだよ。今でもレコーディングのシーンは忘れないけど。」
と記載されている。
そして同年9月25日に"CHAR"(CD:PCCA-00588)でアルバム・デビューをした。 そのアルバムを作成するに辺りバンド・メンバーを探しに渡米、サンフランシスコを訪問した。
96年のEDOX会報VOL.24「大河連載新企画 Char's Perfect History 第二回」に
「実はデビューする時にジョニーとの接触はあったわけ。ジョニーにやってもらいたくって。で、ジョニーはそん時ジョー(山中)と仕事が入っていて、断られたの。
じゃぁ、しょうねぇやって、日本でタイコってジョニーしか考えてなかったから。
「チャーちゃんゴメン。タイミング的にジョーと懸けたいバンドがあるんで」ってんで、それだったらしょうがねやと、渋谷の茶店で。じゃぁ、ジョニーがいないんだったらもう日本考えられないってなっちゃった。レコード作るのにね。それが幸か不幸かっていうか。」
と記載されている。
そして渡米時のエピソードで
「結局向こうに行って、先にジョニーがジョーとかとバンド作ってLA行ってて。で俺全く一人でLA行ったの。全く一人だったの。で右も左もわかんない。税関通って、初めて一般の所とゲートが開く自動ドアがあんのね。そしたらそこでガーッと開いたらジョニーがいたの(笑)。
ジョニーはキーボードの、俺と同じ飛行機に乗ってた篠やん(篠原信彦)かなんかを迎えに来てたの。ほいで俺はジョージ(西沢常治ことGeorge Mastich)が待ってた。待ってたんだけども、最初に見えたのがジョニーだった(笑)。
ガーンみたいな!世の中狭いみたいな!
そいでLAでリハーサル初めて、ジョニーはサンディエゴだったか、ノースハリウッドだったか忘れたけど、俺らはアナハイムにいたから、アナハイムって所は結構ダウンタウンから1時間くらい中に入ってって。そこのガレージで練習してて、まぁオーディションがてらみたいな、その1枚目のアルバム作る面子と。そういうことたってる事をジョニーは知ってて、でジョニーがいざ何かのリハやろうと思ったらシンバルが足らなくて取りに来たの。アナハイムまで、ロバートに借りに。」
も明かしている。
このメンバー探しとはスタジオ・ミュージシャン、バック・ミュージシャン活動時代の仲間である西沢常治ことGeorge Mastichが帰国し、やはりハイ・スクール時代まで日本に在住していたRobert Brillの二人を伝って、もしかするとこの二人を日本に呼び戻そうと渡米したのか?。
その時、二人はサンフランシスコにあるクラブでピアノの弾き語りで黒っぽい曲を演奏するJerry Margosianのバックを務めていた。
ところが渡米後すぐにメキシカン・フルー(風疹)になり数日間寝込むことになった。
帰国直前、友達のガレージで1回だけセッションし、日本でレコーディングすることを約束したチャーであった。
そして2ヶ月後、彼らは来日した。
デビュー当時のメンバーは
Jerry Margosian(Kbd,Vo)
佐藤準(Kbd)
西沢常治ことGeorge Mastich(B)
Robert Brill(Dr)
である。
レコーディングに先立ち7月に合歓の郷で曲作りを兼ねた合宿が行われた。 曲作りは"Smoky"と"かげろう"以外はピアノで行い創っては寝ているメンバーを叩き起こしてアレンジしていった。
またシングル・バージョンの"Shinin' You SHinin Day"の歌詞を一部書き直したり、"Smoky"などは歌詞は1番位しかなくこの合宿の中でJerry Margosianと共に歌の役割分担をしながら完成させた。
そしてレコーディングの結果がファースト・アルバム"CHAR"(CD:PCCA-00588)である。
ただし"Navy Blue"はシングル・バージョンがそのまま収録されており、この曲だけレコーディング・メンバーは異なる模様である。
ロッキンf 76年8月号 「オレ大将、スゲエ外人たちを引っ張ってきたよ!★ピッタシ合うバンドマンやーい!」
初のシングル「ネイビーブルー」でデビューした天才的ロック・ギタリスト竹中Charが、いよいよ本格的な活動を開始した。9月にリリースされる初のLPレコーディングのため、メンバーを捜しにアメリカへ旅立ったのだ。その結果、3人の強力メンバー獲得に成功。意気揚々と帰途したCharは、7月初旬から彼らとともに、レコーディングにはいっている。 という説明文の他はチャーの言葉と写真3枚で2頁分の記事である。
向こうのメンバーをこっちに呼んでLPを作ろう
この広いアメリカにたったひとり、片手にアタッシュ・ケースをぶらさげてロス空港の税関の前に立ったとき、「オマエの荷物はタッタこれだけか?」と税関の人にあきれられてしまった。
でもとにかく税関を無事パスして、送迎室までやってきた。
「しかし、どうしてロスまできて、東京で最近まで親しかった連中と会わなきゃならないんだろう。ひょっとしたら、ここは羽田じゃないかな?」などと思いながら、迎えにきているはずのジョージはいずこ・・・とキョロキョロみまわす。すると、片隅から、ヤー公みたいな言葉だったけど、でもりゅうちょうな日本語で、「チャー、なにをキョロキョロしてやがるんだ。オレはここにいるじゃねぇか」という言葉が飛んできた。
それがお目当てのジョージだった。そしてこの時から、ボクのロス生活がはじまったのだ。
申し遅れたが、ジョージは日本に住んでいたことがあるアメリカ人のベーシストでソイツに会うことから、今回の渡米目的(アメリカでのメンバー捜し)はスタートしたのだ。
そんなわけで、ジョージとは深い友達で(といっても、別にヤバイ関係ではない)彼が日本にいた時からバンドを作ったり、スタジオ・ミュージシャンをやったり、どっかの歌い手さんのバック・バンドをやったりしていた、ボクの大のお気に入りのベーシストであり、人間である。
すでに手紙や国際電話で、今回のボクの渡米について詳しく説明はついており、彼の協力をベースにして、渡米の最大の目的である"メンバー捜し"は進められた。
ところで、なぜボクがメンバー捜しにアメリカまでやってきたのか?その意図を述べよう。この7月に、新たに発足したキャニオンのシーソー・レーベルで、自分のLPを作ることが決定したのだが、それレコーディング・メンバーについて、頭を悩ましていたのだ。
それで、いったいどんなヤツラとやろうかと考えたあげく、一番自分にとってよい相手は、慣れ合いのミュージシャンたちもいいけれど、まったく知らないメンバーを1から捜して、1から音を作り出して行くのもいいなぁと思ったのだ。するとなぜか、すぐ国内をあきらめて、海の向こうに目を向けたのである。
そこで向こうで、向こうのメンバーと向こうのスタジオでレコード作ろうか、それともこっちが、こっちに呼んで、こっちのスタジオでレコードを作ろうかと考えた末、ボクが一番エライんだから、呼んでやろうと思った・・・というのは、ジョークで、慣れている日本のスタジオやミキサーやスタッフの人たちとレコーディングする方が、いい結果を期待できるのではないかとと思い、こちらに呼ぶことに決定したというわけだ。
ところでここでちょっとつけ加えておくと、ボクの見た目では、向こうのスタジオの機材なんかは問題にならないほど、こっちのスタジオのそれは揃っていると思ったことだ。たぶん、日本(東京)ぐらい良い機械を入れているスタジオは、世界中にないんじゃないかな・・・。なにしろそういうわけで、今回の渡米に至った次第なのだ。
ニューグループの編成はG1、Kb2、B1、D1の計5人
さて、話はここで再びジョージに戻る。彼が、数年前アメリカに帰国したあとも、しょっちゅう手紙を出し合ったりしていたのだが、昨年の終わりごろから、結構いい金になるクラブに出たり、ロスのスタジオ・ミュージシャンをやったりするようになり、お互いに海を越えてはげまし合っていた。そんな関係で、そのクラブに出入りしているバンドの他のメンバーが、結構イケるヤツラ」らしい、と知ったのがことしの春ごろ。「ああ、ボクも向こうに行って、混ぜてほしいなぁ」などと考えていたわけだ。だから、早い話が今回の渡米は、最初に述べたようにジョージの協力を100パーセント期待してのことだった。そのジョージとふたりでリズム・セクションとしてスタジオ・ワークなどをしている、ドラマーのロバートだった。
ロバートは昔、日本にちょっといたことがあり、実をいうとボクもちょっとだけ知っていた男なのだ。しかし本当のところ、彼の顔もドラミングも、記憶にはほとんど残っていなかった。
でも相手は、会うとなんとなくボクを覚えていたらしく、メチャクチャな発音の日本語で「オス、チャー、ヒサシブリダナ」などといって、ボクをビックリさせた。
彼はすでにジョージから、ボクがなんの目的で来たのかは聞いていたらしく、その日は夜が明けるまで、ボクらは日本のことについてペチャクチャと話にふけった。結局、ロバートはかなり真剣に内容を考えてくれて、日本にくることを言葉では賛成してくれた。
ともかく、その話の内容の中で、ボクが彼らに最も大切なこととして聞いたのは、キーボード奏者とヴォーカリストのことだった。なにしろボクの予定としては、バンドの編成はベース、ドラム、ギター、キーボードをふたりの計5人という構想を持っていた。もっとも、キーボードを弾くヤツは日本にひとり、最もボクが信頼しているジュン・サトーという、クルったヤツが、すでにメンバーの1員として決まっていた。ただ、最近の音作りに対処して、ボクとしてはもうひとり欲しかった、ということなのだ。
話は前後するが、ともかく、ボクのこうしたお願いに対して、ジョージとロバートはかなり期待の出来る返事をくれた。ボクがちょうどロスにいるとき、彼らはレコーディングをしていたのだ。その仲間に、以前マロとかサンタナの連中とハリウッドで一緒に仕事をしていた、こんどメンバーに加わってくれることになったキーボードとベースを弾くシンガーがいた。
オレはヤツらにまいり、ヤツらもオレにまいった!
運のよいことに、ボクがロスに着いた翌々日にも、そのレコーディングが、あるスタジオで行われるという。このチャンスに、彼に会ってやろうと思い、ヒョイとクルマに乗って出かけて行ったのである。
ジョージたちが、まっすぐにスタジオへ行くよりも、先にヤツの家に立ち寄って、ボクを紹介してくれるという、だから喜んで、ヤツのカッコいい自宅へ向かった。
その車中のラジオから、ピーター・フランプトンのライヴが流れていた。そして、ロバートがボクに、「American young people digs Rock'n'Roll right now」と教えてくれた。
そこでボクがロバートに、「What about Funcky music?」と聞くと、彼はひとこと「No」と答えた。
とにかく、30分以上もクルマの中で、ラジオから流れるハードなロックン・ロール・バンドの演奏を聞きながら、ヤツの自宅に着いたのである。
家の中に通され、そこで一時間以上にわたって飲んだり食べたり。話もはずみ、その中でかいつまんでヤツになんの目的でボクがやってきたか、その理由をルル説明した。その後スタジオへ向かい、そこで彼らの演奏と歌を聴いて完全にマイった。絶対こいつらは、日本に連れていくぞと心に決めたのはいうまでもない。
つぎの日、みんなとヤツらの練習場所であるガレージで、ジャムをすることになった。夜、8時ごろからワイワイと、関係のないヤツらまで集まってジャムを深夜まで・・・。その結果、お目当ての3人も、ボクのギターにまいってくれて、晴れてここにニュー・グループが誕生したのである。
アッサリとその辺のいきさつを書いてしまったが、音のことに関しては、文字では表現しにくいので、ご容赦願いたい。
ともかくそんなわけで、東京でレコーディングする話がトントン拍子に進み、最後には、ヤツらが飛んでくるフライトの話しにまでなってしまったのである。
異国の地ですげーヘヴィな風疹にかかる
ここで話は大飛躍する。というのも、ボクはそのジャムのあとに、ひどい伝染病かかってしまったことを書こうとしているからだ。日本でいえば、例の「風疹」みたいな病気で、ロスではすでに80人も死んだそうだ。もちろんボクも、旅先での病気でもあったし、「こりゃあ、バンドを作る前にくたばるかな?」などと思うくらいヘヴィーだった。
ここではじめて、例のキーボードのヤツの名を出すが、彼はジェリー・マーゴシアンという。そのジェリーが、ボクの病気を知って毎日お見舞いにきてくれ、病状が回復に向かったころ、わざわざクルマに乗せてくれて、ハリウッドの日本料理店に招待してくれた。そして「病気の時は、自分の慣れている食べ物を食べたほうが早くよくなる」などと泣かせることをいって、親切に面倒を見てくれたのである。
病気が取り持つ縁というのか、友達としてもジェリーと親密になり、ボクが日本に帰るころには、「チャーがいいんだったらずうーっと日本にいて、グループを結成してツアーなんかしたいなぁ」などと、かなり真剣な態度を示してくれた。それがとてもうれしくものすごく元気づけられた。
この「ロッキンf」が発売されるころには、きっとレコーディングに入っていることだろう。
ボクにとって初のLPは、きたる9月25日にリリースされることに決定している。8月ころには、願わくば、ボク自身が、海の向こうまで出かけて行って捜してきたこの気の合ったメンバーと一緒に、日本各地をツアーして回りたい、というのが、今のボクのささやかな夢である。
ファースト・アルバムのメンバー
Robert Brill(ロバート・ブリル)(Dr)
Jerry Margosian(ジェリー・マーゴシアン)(Kbd,Vo)
西沢常治(ジョージ・マステッチ)(B)
佐藤準(Kbd)
87年インタビュー 「J.-Rock In Transition」
Q:あのメンバーは向こうでジャムをしながらつみけていったんですか。
A:うん。
Q:ふりかえれば向こうでの活動歴みたいなものはかなりあったんですか。
A:あったね。レコード、Jerry Margosian(Kbd,Vo)は出してたみたいね。Jerryが割とサンフランシスコでやってて、で、JerryがRobert Brill(Dr)とか、ベースのやつ(西沢常治ことGeorge Mastich)とかいろいろ、ギターのやつもいたんだけどね、実際は。わりとポルトガル系のヤツで。それのバック、クラブとか、向こうはコンサートってなかなかすぐはいかないから、クラブでやってたみたい。それは仕事は見に行ってないけど。単純にパッと、スタジオに行ってこいつは絶対欲しいと思っちゃった。ギターもほしいとは思ってたんだけど。そのバンドがちょうどギターで悩んでいたんだ。俺がこいつも一緒にやりたいと言ったら、「ここだけの話だけど、チャーとやるんだったら、あいつとこれを機会にやめたい」と言われて、俺がそいつに言わなくちゃいけないハメになっちゃって、最悪の役をやらされた。
Q:それはバンド名らしきものはあったんですか。
A:なんだっけな、ラーズかな。何かあった。
市販本「Roft is Rock / The History Of Roft」
市販本「Roft is Rock / The History Of Roft」にチャーのライヴ情報を見つけました。
そこにチャーのコメント
「私のデビューとロフトのデビューはほとんど同時期で、デビュー直後、下北ロフト、荻窪ロフト、そして新宿ロフトの3ヶ所を含む東京ライブハウスツアーを行った事が、私へプロとしてのソロ活動の出発点となっています。当時の事は、昨日の事のように鮮明に覚えており、特に下北ロフトでの演奏が印象に残っています。その後も新宿ロフトを中心に何度もライブを重ね、自分のライブパフォーマンスを育てました。ロフトの思い出で、本一冊書ける程ありますが、それは、100周年あたりで・・・。」
と共に、ROOF TOP 77年4月号の表紙を飾る写真、上半身裸でムスタングを持ち演奏する写真が掲載されています。
日付 | 名義 | タイトル |
76年 4月? | Char | デビュー・シングル"Navy Blue"のレコーディング |
76年 5月 | Char | レコーディング・メンバーを探しに渡米 |
76年 7月 | Char | 合歓の里にて合宿 |
76年 7月〜8月? | Char | ファースト・アルバム"Char"のレコーディング |
76年?月?日(?) | Char | 下北ロフト |
76年 8月 7日(土) | Char | 荻窪ロフト |
チャーと山内テツとのツアーとは?

(2014年頃、ネットからダウンロードしてあった画像)

(2014年頃、ネットからダウンロードしてあった画像)
その時のパンフレット、残念ながらツアー日程の文字は判別不能。
FreeそしてFacesに参加し凱旋帰国?した山内テツのバンド「TETSU & THE GOOD TIMES ROLLS」のOpening Actとしてジョイントツアーを行う。
76年12月号「月刊・明星」の付録「Young Song」という歌集にはコンサート・ガイドが掲載されています。
そこに「山内テツ&チャー」で 11月11日(木)東京・神田共立講堂P.M.6:30 \1500〜2500 キョードー。 11月21日(日)徳島文化センターP.M.6:30 \1500〜2500。 11月23日(火)福島市民会館P.M.6:30 \1500〜2500。
の日程でコンサートを行うとありました。
補足:
11月23日(火)福島市民会館は誤りで福岡市民会館である。
11月21日(日)徳島文化センターは実際に開催されたか疑問である。
1964年に開業した東海道新幹線は東京〜新大阪間を3時間強で結び、1972年には山陽新幹線が新大阪〜岡山間が開業した後、1975年には東京〜博多間を最短で6時間56分で結ばれるようになった頃。
高速道路も東名高速道路と名神高速道路は全線開通していたものの、それより西の中国自動車道は部分開通だった頃。
飛行機は搭乗すること自体が高嶺の花であった頃。
 地図 拡大
1975年当時、名古屋から金沢に鉄道で移動するならば、名古屋駅から米原駅経由で金沢駅まで在来線特急しらさぎ号で6時間位?
もしくは名古屋駅から米原駅まで東海道新幹線こだま号で移動し、米原駅で在来線特急しらさぎ号に乗り換えるか。
この経路は2022年になっても変わらない、時間帯によっては名古屋駅から東京駅まで東海道新幹線で戻り、東京駅から金沢駅まで北陸新幹線で移動するルートもありますが、です。
ましてや機材と共に自動車で移動するならば当時は国道しかなく大変だったと思います。
女性誌mc sister 76年?月号 「Tetsu & Char Right On! We Now Get The Big Beat! ふたりのロックン・ローラーがかえってきた」
11月11日(木)の東京・神田共立講堂でのコンサートでの写真が複数枚掲載されている。またメンバー一人一人の小さいスナップ写真と共に紹介されている。
11月11日(木)の東京・神田共立講堂でのコンサートを終えた数日後の11月16日に東京・虎ノ門近くのチャイニーズ・レストランでインタビューを受ける。
Q:まず、キャニオンを選んだ理由なぞをらっと話してくれませんか。
A:キャニオンは今までロック・タレントを持ったことはなかったし、その上新しいレーベルを作ってくれるというんで、それなら一丸となってやってくれるはずだなと思ってね(笑)。まぁ、商売になってもいないのにロック、ロックと騒いでいる会社よりも、無から始めてくれるほうがよっぽどいいと思ったんですよ。
Q:メンバーをアメリカに探しにいったのは、どんなところから話しが始まったの?
A:キャニオンのほうから、アメリカでレコーディングしてみないかという話しが来たんで、それならば俺に向こうでメンバーを探させてくれないかということから始まったわけ。それにバンドを作りたかったしね。
Q:そうすると今のメンバーはテンポラリーなものではなくて、これからずうっとやっていく顔ぶれということなの?
A:そう、パーマネントとして考えたいですね。ビザの問題を除けば。
Q:いいですね。でも日本のロック・ピープル、ロック・ファンというのはとても少ないと思うんですよ。たぶん0.何パーセントという数だろうし、レコード・セールスにしても何万枚売れればベスト・セラーということで。その辺の事情をどういうふうに考えていますか? 日本でのロック・ビジネスという意味で。
A:こっちがロック、ロックと言ってしまったら日本ではだめですよ。バーンと防波堤をはられてしまう。向こうの奴らにとっちゃ、ピーター・フランプトンも野口五郎も同じことだけど、日本ではまるで違ってします。じゃ、野口五郎のショーはどうかっていえば、ロックといえばロックですよ。音はね。日本人っていうのはそういうふうに名前をつけるのが好きなんですよ。そうね、今のロックの対象は何かといえば、10年前と少しも変わっちゃいない。たとえば2万枚売れて大ヒットだって喜んでいたのは、2〜3年前のことでしょ。今だってその数は全く同じですよ。つまり商売になっちゃいないんだな。
Q:では、チャーなりのやりかたでこれをぶち破りたいみたいな感じはあるの?
A:ぼくはミュージシャンだってなるべく言わないことにしている。ロックをやってることを自分の口から言ったってしょうがないことだしね。ロックを足がかりにして何かやろうとしても時間はかかるし、金がもうかるわけじゃないし。だから自分の出来る範囲の事をしたいですね。何でも。音楽以外でも。
Q:イベント的なことではどうですか? たとえばヤングパワーを認めさせるには、若い人たちがやらなければまず始まらない話しだし、そんな意味でカリフォルニア・ジャムみたいに30万〜40万の人間を集めたイベント・コンサートは、大きな力だと思うんだけど。
A:それは日本でも出来るんだよね。吉田拓郎がすでに6万人集めているし。ロックでそれが出来ないはずはないんだよね。なぜ出来ないかというと、商売になっていないからなんだな。だれもがFENに浮かれてさ、わかるはずないのに。こんなことをしているから、いつになっても何も変わりやしないんだ。ミュージシャンまでが素人と同じように向こうのレコードに影響されてさ、これじゃ日本のロックなんて出来るはずがないよ。でも、ぼくが絶対創ってみせるけどさ。
87年インタビュー 「J.-Rock In Transition」
Q:最初にSEE SAW(キャニオン)というレーベルを作って、山内テツと絵夢、3つのパッケージでやりましたよね。それはメーカーのレーベル構想みたいなものがあったんですか。
A:やっぱりテツがいちばん大きかったと思うんだけど、要するにメーカーのほうでも困っていたというか、どういうふうにするかということが、俺であるとか、テツであるとか、今で言う新人類といったら変だけど、向こうは商売だから、どのワクにはめるかというか、どこのところで仕事をすればいいのか、会社の中で。
それにはやっぱりレーベル作るしかないんじゃないか。それこそ中にいても、FM担当だった人とか、例えば少ない音楽雑誌だった人を集めて、そのシーソーというものを発足した部分があったみたい。だからいい意味ですごくファミリーなところだった。あんまりセールスとかいうことにもこだわらなかったし。
やっぱりメインがテツだった部分で、テツなんかもっと大きなカルチャーショックを受けたと思うけど、イギリスで通用するものが、逆に日本で通用しないというか。俺はロバート達と再三シーソーツアーをやったり、どっちかというとテツのサポートだよね。
テツはテツで、ゲーリー・ポプキンスとかイギリスのメンバーで、桑名晴子と、森園(勝敏)と、嶋田とやって。これはすごくいいバンドだったと思うんだけど、ああいうノリって日本ではもう終わっていた頃というか、全員外人がやっているんだったら、それなりの珍しさもあるんだろうけど。いい意味でよすぎたのかな、あまりにも。
俺たちは逆にもっと日本人離れしながら、日本人的だった。日本語もやってたし。やっぱりアメリカとイギリスの差が出たんだと思うんだよね。そういう意味で俺がイギリスに行って、「ああ、終わっているな」と思った直感は正解だったんじゃないかな。実際そのあとはアメリカの時代でしょ。それでテツは1枚作ってやめちゃったし、絵夢は絵夢で結婚してわからなくなっちゃたし、それで俺だけ残って、どうしようかということになったのね。
今みたいに外国人が日本で仕事をするということがそう頻繁に行われていなかった時代だから、すごくブルってたんだよね。脅かされたというか、異民族が来て、演奏中に逮捕されるんじゃないかとか。調べればわかったことなんだけど、未知の世界ですごく無知だったし。
何月何日に1回出なきゃなんないとか、そういうことになると、やっぱり人ひとり1年間置いておくにどのくらいのお金がかかるということになってくると・・・。
バンド作ってコンサートやって公表を受けたまではよかったんだけど、この先もこれでやっていくつもりなのかって言われちゃったのね。俺は当然だ、これでやっていきたいと。
Q:そのときは野球選手じゃないけど、全部、トレードしちゃうでしょ。
A:そうそう。そうするしかないでしょ。ロバートはその頃から精力的に自力で韓国に行ってビザ書きかえてきたりとかしたけども。やっぱりサンフランシスコのヤツは、もっとロック・ミュージシャンだから、ルーズといえばルーズだけど、話が違うじゃないかと。とにかく1回出るしかないと。しかい1回帰して呼ぶとなると、きっかけがないと呼べないし、アルバム作るとか。
そうするとライヴなんかできなくなっちゃうでしょ。まぁ準がいるからいいやといっても、基本的にはJerryがボーカルで、俺がサイド・ボーカルというグループにしたかったのね。
そのへんでだんだんバンドと現実とのギャップが出てきて。
俺としては、やっとそこまでして待って作ったグループだし、ソロを断って、スモーキー・メディスンでも作らないできたから、それでもうバラバラになっちゃって。そういう意味じゃアメリカ人は割り切っているから、お金にならないんだったら、それまで日本に来ないようにしよう。
Q:1年ぐらいはいたんですか。
A:出たり入ったりしてた。90日とか60日とか、そんな単位で、キョードーとかウドー、その頃知ってたら、それなりの方法論があっただろうけど。
当時のことはファンクラブの会報「EDOX」と「DIBS」に連載されていた「Char's Perfect History」の第2回(EDOX Vol.24)で語られている。
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