中里恒子 なかざと・つねこ(1909—1987)


 

本名=中里 恒(なかざと・つね)
明治42年12月23日—昭和62年4月5日 
享年77歳(圭璋院文琳恵恒大姉位)
神奈川県鎌倉市山ノ内409 円覚寺墓地(臨済宗)



小説家。神奈川県生。川崎実科高等女学校(現・川崎高等学校)卒。親族の国際結婚を描いた『乗合馬車』で昭和13年度芥川賞を受賞。『歌枕』で読売文学賞、『わが庵』で芸術院恩賜賞、『誰袖草』で女流文学賞を受賞。ほかに『花筐』『時雨の記』などがある。



 



 晩秋のしとしとした日に、多江は、あの道を壬生と歩くやうな氣持で、最後にいった小倉山の、時雨亭のあたりをたづねてみました。壬生は、そばにゐました。…

 多江の心のなかでは、墓は、ここでよかったのです。あのときのやうに、ひと影も稀でした。
 時雨がさっと降りかかり、また晴れました。山から吹き下す松風だけでした。
花もすみれも在りし日や
爪くれなゐに鶯の
まだ笹鳴も戀の夢
都忘れの池水に みだるる葦の葉ずれさへ
龜 沈みゆく秋愁ひ
あらざらむ 萩の葉かげのうたたねの
かへらぬ旅にたたんとは
今ひとたびの逢ふことも
なくてぞもみぢ散りにける
時雨ぞもみぢ散りにける
 多江が、壬生におくる、やうやくに出來た弔詞でした。これは、これからもひとりで生きようとする花も、もみぢもなくなった、女の一生の集約でした。冷たい松風もいっしよに。
                                     
(時雨の記)

 


 

 主婦作家として出発し、女性初の芥川賞を受賞した中里恒子の受賞作『乗合馬車』の書き出しはこう始まる。〈きょうも、きのうもずっとこの頃は朝から風立っていた〉——。
 恒子の周辺には、いつの時もやるせなく寂しい風が立っていたように思える。3歳の時の実家の破産にはじまって出産後の結核療養、夫との離婚、そしてまた娘の国際結婚により家庭という安息処をも失ってしまった。
 主婦作家だったころには川端康成の少女小説『乙女の港』を代作したこともあった。〈気は弱いが、気は烈しい〉と自らを評し、厳しい孤独を抱かえた文学的性格は晩年の旺盛な筆力を支えたが、昭和62年4月5日、大腸腫瘍によって77歳の生涯は閉じられた。



 

 昭和7年、結核療養のため移り住んだ逗子には逝去するまでの半世紀を住まったが、煌びやかな海の望める住まいから一転、この寺の深閑とした樹影の内に身を置く墓の主となったのは、家業呉服問屋に身を入れず、歌、書など風流好みの父万蔵が帰依した円覚寺管長釈宗演に因するものであろうか。
 この年も終わりの区切りの日、おおかたの墓々は清められて色とりどりの花が供えられている。雛壇のような高台に建つ「中里家之墓」。昭和62年5月、異国に嫁した娘スクリプナー圭の建之とある。花はない。落ち葉を掃きあつめる墓守、か細く立ち上る灰白色の煙、薄闇が垂れこみ始めた点景は傍観者を包み込みながらゆくりなく凍結していく。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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