中川一政 なかがわ・かずまさ(1893—1991)


 

本名=中川一政(なかがわ・かずまさ)
明治26年2月14日—平成3年2月5日 
享年97歳 
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種17号19側 


 

洋画家・詩人・随筆家。東京府生。(現・錦城高等学校)卒。独学で油絵を初め巽画会で岸田劉生に認められる。大正4年劉生らと『草土社』を結成、11年『春陽会』の創設に参加。また武者小路実篤、志賀直哉など白樺派の作家たちと交わり影響を受け、詩や随筆でも知られる。詩集に『見なれざる人 』随筆に『中川一政文選』などがある。





 


愛子よ
おまへはまつくろけ
けれどぼくの愛するおさないいもうと
けふはクリスマス
おまへをつれて來いと
文子は云つたけれど
ぼくはまつくろなおまへが
かたくなつて
自分のまづしい服装を
よろこぶおまへを
白い足袋からまつくろなふくらはぎが
でてゐるおまへを
あの上品なをさない人達の眼に
輕蔑されるのをかなしむ
けふはクリスマスと云つたぼくをゆるせ
おまえは野の花だ
くろい口の大きい叫びごゑのあらい
野のむすめだ
たのしさをゑがいてさびしかったら
かけまはつて慰めよ
けふのクリスマス
おまえをはづかしめられたくないので
ぼくはつれてゆかないのだ
つれてゆくと云はないのに
もうおほ兄さんとゆくと
となりに揚言してとんであるく
おまへをみると
ぼくはいろのくろいおまへが
うらめしい
ゆるしてくれ
わが愛惜しむ
くろいいもうとよ
クリスマスでも
俥屋やそばやの子とおまへは遊ぶのだよ

 

(墨東『見なれざる人』・野の娘綺譚)

 


 

 〈画は汚くてもよいのだ。それよりも生きているか死んでいるかが問題だ。〉と、全く荒々しく、躍動感溢れ、自由奔放な色彩とその剛胆な筆勢、観る者たちを類い希なる詩情に誘ってゆく中川一政のいう生死こそ尊い。自然を愛し、写生をよくした。〈一度でも見たものは、その境地を忘れない。その境地以外に身を献げることの出来ないもの、死に身になれないものこそ芸術家であると云ってよい。人はそれによって生きるのである。完全になるのである。五十年生きていても、見る事を知らないならば、生きていながら死んでいるのである。〉、生死の極みを描いた一政は平成3年2月5日、心肺不全のため、神奈川県湯河原厚生年金病院で97歳と11カ月の生涯を閉じた。



 

 歌を作り、詩を作り、画をかいた中川一政、かつてアトリエの壁に書いた賢者セネカの〈ひねもす走りおおせたる者、寄るのやすきにつくこそよけれ。〉というはげみの言葉はよく働く者が、よく眠るの同義で〈よく生きた者が、よく死ぬことが出来る〉のだという境地に自らを置いた芸術家の眠る「中川家之墓」。裏に千九百六十年二月一日一政建之、碩学的な書で知られる一政の太く柔軟な筆跡で彫られている。右側面に両親や妻暢子、息子に挟まれて一政の没年月日が刻まれ、中川杏奈として映画『敦煌』などにも出演した孫で女優の栗山杏奈の名も見える。戦時中に疎開して魅了された真鶴のアトリエの眺望景観にはほど遠く、副都心池袋の高層ビルを背後にした墓碑にいましも爽やかな朝の日が射しはじめた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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