中山義秀 なかやま・ぎしゅう(1900—1969)


 

本名=中山議秀(なかやま・よしひで)
明治33年10月5日—昭和44年8月19日 
没年68歳 
神奈川県鎌倉市山ノ内453 円覚寺松嶺院(臨済宗)



小説家。福島県生。早稲田大卒。『厚物咲』で昭和13年度芥川賞を受賞。14年『碑』を発表、次いで『美しき囮』『風霜』『秘書』などを発表。戦後、『華燭』『テニヤンの末日』などを発表して注目された。『咲庵』で野間文芸賞受賞。『新剣豪伝』『信夫の鷹』などがある。



 



 人はこうした何等かの魂の秘密なくしては、その艱難な生活に耐えないのであろうか。それとも艱難の生活がそういう秘密を生むのであろうか。瀬谷ははからずも彼が曾て送った東京の生活を思い起した。彼はあの時狂気していたのか。あの狂気なしにはああした生活に耐えなかったのか。瀬谷は今になってたっと生活の秘密が解ったような気がした。それとともにこれ迄悩んで来た余生の覚悟もはじめてここに落ちつくような安らぎを覚えた。最早自分の過去に不平は云うまい。妻子に取り巻かれ町の人々に信頼されている現在の生活に感謝しょう。片野やお鱗の生涯は同じ人間の生涯にしても余りに凄じすぎる。非情の片意地を培養土にして厚物の菊を咲かせるより、花は野菊の自然にまかして孫達のお守をしながらもっと人間らしい温かな生涯を送ったがましだと、瀬谷は二度ともはや果樹園の方を振り返ろうともせず、しかし流石に永年の友を失った孤独に泌みて反対側の山路を一人とぼとぼと下って行った。
                               

(厚物咲)



 

 昭和40年秋、東京女子医科大学病院で食堂がんの宣告を受け、病魔との戦いが始まり、『中央公論』連載中の『芭蕉庵桃青』は未完になった。
 その作品の最後に読者に向けて〈食道癌の手術以来、三年間、生に恵まれた事を感謝する。(略)病と戦いながら二十枚、三十枚と書き続けて来たけれど、苦しさの中にも楽しさがあった。今二回で終わるところであるけれども、それも是非ない。私としては、未完成に終わったけれども日本人の美しい情操を伝えるものとして贈りものとするに恥じない〉と記している 。
 44年6月、妻澄子に「今日、おれは死ぬんだ」と宣告した8月19日の午後、不帰の人となった。死の前日キリスト教の洗礼を受けていた。



 

 かつて有島武郎が『或る女』を書き、葛西善蔵が寄寓したこの塔頭の高台にある墓地には女優・田中絹代やオウム事件の坂本弁護士、作家・開高健などの墓もあり、紫陽花の時期とも相まって観光客で賑わっていた。
 文芸春秋社長であった池島信平墓の右隣に建つ「中山義秀」の墓は、30数年に及ぶ交友のあった漫画家・清水崑の墓と面対してあったが、峻烈そのものの作家であったこの墓碑に眼を留めた観光客はいなかった。
 ——昭和39年、中山義秀65歳の秋、小説『高野詣』の主人公が滞在した高野山の宿坊、三宝院の要請で墓を建立した。碑文には〈在りし日のかたみともなれかげらふの塚〉と自筆を刻んでいる。高野山の墓には没後8年目に分骨された。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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