永井荷風 ながい・かふう(1879—1959)


 

本名=永井壮吉(ながい・そうきち) 
明治12年12月3日—昭和34年4月30日  
享年79歳 ❖荷風忌  
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種1号7側



 

小説家。東京府生。東京外国語学校(現・東京外国語大学)中退。広津柳浪に入門。明治36年アメリカ、フランスに外遊。帰国後『あめりか物語』『ふらんす物語』を発表する。43年慶大教授、『三田文学』を創刊。『腕くらべ』『濹東綺譚』などを発表。『断腸亭日乗』の執筆を続けた。『すみた川』『おかめ笹』『問はずがたり』などがある。 





 


 今までどうかすると、一筋二筋と糸のやうに残って聞えた虫の音も全く絶えてしまった。耳にひゞく物音は悉く昨日のものとは変って、今年の秋は名残りもなく過ぎ去ってしまったのだと思ふと、寝苦しかった残暑の夜の夢も涼しい月の夜に眺めた景色も、何やら遠いむかしの事であったやうな気がして来る……年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思ふところの感懐も亦変りはないのである。花の散るが如く、葉の落るが如く、わたくしには親しかった彼の人々は一人一人相ついで逝ってしまった。わたくしも亦彼の人々と同じやうに、その後を追ふべき時の既に甚しくおそくない事を知ってゐる。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃ひに行かう。落葉はわたくしの庭と同じやうに、かの人々の墓をも埋めつくしてゐるのであらう。

(墨東綺譚)

 


 

 評論家磯田光一が言うところの〈日本風土になじみにくい気質、自由な個人主義、日本最初の近代人〉。晩年の風変わりな生活ぶりは、多くの人々の話題となったが、〈死ぬ時は、出来ることならぽっくり死にたいね〉と言っていた荷風のダンディズム。
 文化勲章受章の7年後、昭和34年4月30日晩春の未明3時頃、千葉・市川の自宅、書斎兼寝室六畳間で荷風散人は人知れずひっそりと逝った。胃潰瘍の吐血による窒息死であったが、あわただしく行われた納棺には身につけていたものも何ひとつ納められず、ゆかたが一枚被せられたその胸に三文銭袋がそっと置かれ、葬儀屋はやせてはいるが大柄で骨太の老人の体を無理矢理小さな棺に押し込み、あっさりと、その蓋をかぶせた。



 

 〈余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。石の高さ五尺を超ゆべからず、名は荷風散人墓の五字を以て足れりとすべし〉と『断腸亭日乗』に綴った。
 その思いのたけを偲ばせた南千住の投げ込み寺・浄閑寺本堂裏の寒々とした場所には、荷風死去四周年の命日に「永井荷風文学碑」が建立され、ブロック塀に碑文として詩集『偏奇館吟草』より「震災」の詩が掲げられているのであるが、荷風が望んだ「荷風散人墓」は存在せず、背丈ほどの高い槙の垣根に囲まれて昼なお暗い雑司ヶ谷の永井家墓所、楓と百日紅の木の下に父と永井家の墓に挟まれた「永井荷風墓」は鬱々とあった。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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