中上健次 なかがみ・けんじ(1946—1992)


 

本名=中上健次(なかがみ・けんじ)
昭和21年8月2日—平成4年8月12日 
享年46歳(文嶺院釈健智)
和歌山県新宮市新宮字南谷3465 南谷墓地 



小説家。和歌山県生。新宮高等学校卒。肉体労働に従事しながら『文芸首都』に加わる。『十九歳の地図』『鳩どもの家』『浄徳寺ツアー』が続けて芥川賞候補となり、『岬』で昭和50年度芥川賞を受賞。『枯木灘』『鳳仙花』『千年の愉楽』などがある。




 


 木がゆれていた。ゆっくりと葉をふるわせていた。余計なものをそぎ落したい。夢精のたびに、そう思った。人夫たちの声の他に、音はなかった。振り返るとそこから、市の全体がみわたせた。駅が、ちょうど真中にあった。駅から、十文字に道路がのびて人家がかたまっていた。商店街もみえた。駅の左脇に小高い丘があり、その下が姉の家のある路地になっていた。そこから、彼の家まで、線路に沿った道をたどり、田圃の道を行く。歩いて十分ほどの距離だった。彼の家から防風林まで、道が枝別れしながら一本ついている。防風林のすぐそばに墓地があった。そのならびに、古市の家がある。日を受けて白い屋根がみえる。防風林のむこうに、浜が見えた。海がみえた。町は海にむかって開いたパケツの形をしていた。日が当っていた。彼は不思議に思った。万遍なく日が当っている。とどこおりなく、今、すべてが息をしている。こんな狭いところで、わらい、喜び、坤き、ののしり、蔑む。憎まれている人間も、また、平然としている。あの男が、いい例だった。あの男は、何人の女を泣かせたろう、何人の男から憎まれているだろう。いつも噂にのぼったあの男も、それから、文昭の産みの女親も、この狭いところで生きているのだ。愕然とする。息がっまった。彼は、ことごとくが、うっとうしかった。この土地が、山々と川に閉ざされ、海にも閉ざされていて、そこで人間が、虫のように、犬のように生きている。
                                        
 (岬)

 


 

 熊野は異界、神の国である。中上健次は昭和21年8月2日、神の膝で生まれ、平成4年8月12日朝、腎臓がんの悪化により神の懐で死んだ。
 育歴が余りにも複雑で、系譜を理解しようとしてもなかなか理解できなかったが、とにもかくにも、戦後生まれで初の芥川賞受賞作『岬』からはじまった〈路地が孕み、路地が産んだ子供も同然のまま育った〉健次の「生」を充満させた肉体に宿る激しい光源は、被差別集落の路地という路地の闇や人々の複雑な構造を鮮やかに、あるいは沈鬱にさらけ出した。
 健次の想い描いた夏芙蓉の花はそこここに、いつの日も、いつの季節も濃厚な香りを放っているのだ。健次が生まれ、育ったこの路地には確かな異界があった。神の国があった。



 

 町の外れにあるこの古びた墓地、南の海からゆったりと歩んできた神々しい朝日を背後に、おびただしい墓石の群やばらばらとした樹木、竹林、切れ切れに見える丘上の家並みも一塊りの暗緑色の蔭となって、熊野の霊気を含んだ透明度の高い空に幕を引いている。
火葬場を過ぎ、小さな丘をのぼったところ、くずれ落ちそうな水汲み場の傍らに、座禅を組んだ達磨大師のような自然石が据え置かれていた。熊野の石に唐の詩人王維の漢詩〈君 故郷より来る 応に故郷の事を知るべし 来る日 綺窓の前 寒梅 花を著けしや未だしや〉の揮毫署名から刻んだ「中上健次」墓。手向ける便りさえも携えぬ私の周辺に、微かな甘い匂いが立ちこめている。とっくに消え失せてしまった路地に咲く幻の花、夏芙蓉の香りであるはずもないのだが。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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