中島歌子 なかじま・うたこ(1844—1903)


 

本名=中島歌子(なかじま・うたこ)
弘化元年12月14日(新暦1月21日)—明治36年1月30日 
享年58歳 
東京都台東区谷中7丁目5−24 谷中霊園乙3号9側 



歌人。埼玉県生。幼名登世。水戸天狗党の林忠左衛門と結ばれるが、元治元年天狗党の乱で夫が戦死、歌子も入獄。出獄後加藤千浪に入門。明治10年東京小石川安藤坂に歌塾「萩の舎」を開き、和歌を教えた門人に三宅花圃、樋口一葉らがいる。歌集に『萩のしつく』、歌日記に『秋のみちしば』などがある。



 
 


ふる里の野中にみゆる一村のもりやむかしのには木なるらむ

はかりなき人のこころもささの葉の乱れて後そ知へかりける

忘れては何なくさめん君のためよの為すつる人のいのちを

おのれまつ烟となりて人のためあとを千とせにのこす松かな

住む人もあらしの庭のきくの花ありしなからににほひうつるな

かくはかりつらきわかれのありとたにしらてたのみの世こそつらけれ

何事もすくれは夢となれるよをうつつありとも思ひけるかな

秋の野のを花かたしきよもすから一人ふすゐのとこや露けき

君にこそ恋しきふしは習いつれさらば忘るることもおしえよ

きのふけふと思はてあたに過しけり風のまへなるつゆの命を

 


 

 中島歌子は革新以前の旧派の歌人で、新しい近代短歌時代の到来とともに忘れ去られていく存在であったが、今日にあっては歌塾「萩の舎」の門弟であった樋口一葉や三宅花圃の師としてひろく知られている。明治34年4月、成瀬仁蔵の設立した日本女子大学校に和歌の教授として迎えられたが、生来蒲柳体質であったこともあって晩年は病床に伏すことが多く、三宅花圃がほとんど代講していたという。そして、明治36年1月25日に容体が急変、弟子の佐々木東洋の杏雲堂医院に入院したのだが、歌の弟子であった梨本宮妃伊都子殿下や鍋島公爵夫人など名家の夫人令嬢等に看取られながら1月30日明け方、肺炎のため死去。特旨によって従七位に叙せられた。



 

 歌子の夫林忠左衛門は水戸藩内の攘夷派天狗党の乱に加わって重傷のうえ囚われの身となり獄死。逆賊の罪を問われて歌子も夫の妹てつとともに獄につながれるなど、悲惨な夫婦生活を送っている。赦されて出獄した歌子が小石川安藤坂の生家で始めた歌塾「萩の舎」も後継には悩まされ、歌子の死後はちりじりとなり、自然消滅となってしまった。家庭的にも恵まれず孤独の内に死んだ歌子は、谷中天王寺門前に広がる谷中霊園南西側にある中島家塋域にある。遺言で養子となって中島家を継いだ中島庸が建てた「従七位中島歌子之墓」、荒波に削られた磯石のような自然石の上にすっくりと立つ孤高の碑。おおらかで伸びやかな碑文字によって歌子の生涯が救われるように思えた。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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