中野鈴子 なかの・すずこ(1906—1958)


 

本名=中野鈴子(なかの・すずこ)
明治39年1月24日—昭和33年1月5日 
享年51歳 
福井県坂井市丸岡町一本田 生家墓地・太閤さんまい 



詩人。福井県生。坂井郡立女子実業学校(現・三国高等学校)卒。中野重治の実妹。昭和4年重治を頼って上京。『戦旗』『ナップ』などに詩・小説を発表。11年結核療養のため帰郷、父母を助けて農業に就く。24年新日本文学会福井支部を結成。文学誌『ゆきのした』を創刊した。詩集『花もわたしを知らない』『中野鈴子全著作集』などがある。




 


なんと美しい夕焼けだろう
ひとりの影もない
風もない
平野の果てに遠く国境の山がつづいている


夕焼けは燃えている

赤くあかね色に
あのように美しく

わたしは人に逢いたい

逢っても言うことができないのに
わたしは何も告げられないのに
新しいこころざしのなかで
わたしはその人を見た

わたしはおどろいて立ちどまった

わたしは聞いた
ひとすじの水が
せせらぎのようにわたしの胸に音をたてて流れるのを

もはやしずかなねむりは来なかった


そのことを人に告げることはできなかった

わたしはただいそいだ

ものにつまずき
街角をまがることを忘れて
わたしは立ちあがらねばならなかった
立ちあがれ 立ちあがれ
かなしみがわたしを追いたてた



わたしは

忘れることができない

昔もいまも
いまも昔のように
夕焼けは燃えている

あかね色に
あのように美しく

(なんと美しい夕焼けだろう)



 

 中野鈴子の晩年は、昭和29年、東京癌研究会附属病院での子宮筋腫の手術以来、入退院の連続であった。30年に胆石、31年には胆石手術、32年は肝硬変黄疸、十二指腸潰瘍・胃の一部切除など、ひたひたと確実に体力を奪っていった。たびたびの入院・手術の費用、人手に頼らざるを得なかった耕作費用など、生活の逼迫もあった。
 〈ながいながい一人の旅〉の果てにようやく歩いてきたこのたんぼ道。〈深く愛した兄〉中野重治も、窪川鶴次郎との失った恋も、〈新しいこころざし〉も、朝鮮詩人・金龍済との悲恋、村の家、田畑にでて働いた日々も、いまは美しい夕焼けのなかにある——。
 昭和33年1月5日夕、農民詩人として鈴子は逝ったのだった。



 

 10年ぶりの再訪。屋敷跡に建てられた浮島のようにたゆたう中野家だけの墓地、陰りの聖域の周りで黄金色の稲穂が揺れている。あぜ道の向こうには重治・鈴子生家跡のこんもりとした緑木がみえる。
 〈ひさしの深い 厚いワラ屋根 あふれる池の水 花の咲く垣根 川添いの高い石垣〉と、鈴子の歌った家屋敷は福井大地震で倒壊し、そのあとに建てられた平屋二部屋の小さな家も解体整地された。
 最期の日の前日、兄・重治に鈴子は問うた。〈私は、とうとう農民になってしまった。一本田の田を売り払い、東京で絹の着物を着て暮らしてもよかったのに、私は農民になってしまった。私は間違っていなかったでしょうね〉と。「そうだ」とこたえた兄もここに眠っている。「ひとつのふるさと」と「ひとつの家」に包まれて。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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