内藤鳴雪 ないとう・めいせつ(1847—1926)


 

本名=内藤素行(ないとう・もとゆき)
弘化4年4月15日(新暦5月29日)—大正15年2月20日 
享年78歳(天真院鳴雪素行居士)❖鳴雪忌 
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種ロ10号3側



 

俳人。江戸(東京都)生。昌平坂学問所に学ぶ。文部省に入り、四十代半ばから、当時監督をつとめていた常磐会宿舎の寄宿生正岡子規の影響で句作を始める。豊かな学識と平明温雅な作風で日本派の長老と仰がれた。著作に『鳴雪句集』『鳴雪俳句抄』のほか『鳴雪俳話』『俳句作法』などがある。





 


稲妻のあとは野山もなかりけり

湖に山火事うつる夜寒かな

爺婆の蠢き出づる彼岸かな

魂祭我は親より老いにけり

もらひ来る茶碗の中の金魚かな


雀子や走りなれたる鬼瓦
我が声の吹き戻さるる野分かな 

 
灯ともして夜行く人や梅の中
 
一村を日に蒸しこめて桃の花

遺言も涼しき老の枕なか

 

 


 

 〈俳風は務めて穏雅なる調子を尚び〉、〈身體は幼少より強健ならず。(中略)未だ病と名くる程の病に罹らず。旅行は好む所に非ず。暇あれば、散歩を為す。故に脚は體質に比較して健なり。嘗て徒歩主義會の先達に推選せられしことあり。娯樂遊戯には嗜好少なし。唯だ劇と浄瑠璃を好み、時々短評を試みて自ら樂しむ〉と自伝に記した内藤鳴雪。大正14年9月中旬に肋膜炎を患ってのちは静養しながらの生活を余儀なくされ、年末に脳溢血で倒れて右半身不随、言語不明瞭となってからは横臥の日々であったが、衰弱は著しく、翌15年2月20日午後7時40分、東京・麻布笄町(現・西麻布4丁目)の自宅においてチカ夫人ほか近親者たち人輪の中に没する。絶句は14年11月作〈只頼め湯婆(たんぽ)一つの寒さかな〉



 

  東京帝国大学医科病理教室附属の解剖室で長與博士によって解剖を終えた遺骸は納棺され、2月23日、幡ヶ谷の火葬場で荼毘に付された。25日正午に青山斎場で始まった葬儀は夕暮れ近くに終わり、ここ青山霊園の内藤家の塋域に埋骨された。自然石に刻まれた〈元旦や一系の天子不二の山〉句碑の奥にある「鳴雪内藤素行」墓碑は先に逝った三女楽と次男惟行とこれから死んでいく家族のためにと大正8年の末に鳴雪が建てたもので、なんとも正面がどちらか迷うのだが、右側面には「内藤家之墓」なる文字が彫られている。伊予松山藩の上級武士だった内藤家歴代の檀寺である愛媛県松山の正宗寺には正岡子規の「子規居士髪塔」に並んで「鳴雪先生髭塔」が建っているという。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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