中江兆民 なかえ・ちょうみん(1847—1901)


 

本名=中江篤介(なかえ・とくすけ)
弘化4年11月1日(新暦12月8日)—明治34年12月13日 
享年54歳 
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種イ1号24側 



思想家。土佐藩(高知県)生。大学南校(のち東京開成学校)卒。明治4年フランスに留学。帰国後、仏蘭西学舎を開き、民権思想を教えた。14年東洋自由新聞主筆。15年ルソーの『社会契約論』を漢訳・解説した『民訳訳解』を刊行。『平民の目さまし』『一年有半』などがある。



 



 余一日堀内を訪ひ、豫め諱むこと無く明言し呉れんことを請ひ、因て是より愈々臨終に至る迄猶ほ幾何日月有る可きを問ふ、即ち此間に爲す可き事と叉樂む可き事と有るが故に、一日たりとも多く利用せんと欲するが故に、斯く問ふて今後の心得を爲さんと思へり、堀内醫は極めて無害の長者なり、沈思二三分にして極めて言ひ惡くそふに曰く、一年半、善く養生すれば二年を保す可しと、余曰く余は高々五六ケ月ならんと思ひしに、一年とは余の爲めには壽命の豊年なりと、此書題して一年有半と曰ふは是れが爲め
 一年半、諸君は短促なりと曰わはん、余は極て悠久なりと曰ふ、若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり、夫れ生時限り有りて死後限り無し、限り有るを以て限り無きに比す短には非ざる也、始より無き也、若し爲す有りて且つ樂むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや、鳴呼所謂一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕は是れ、虚無海上一虚舟
                                                           
 (一年有半)

 


 

 フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの『民約訳解』を発表してルソーの社会契約、人民主権論を日本へ紹介して西欧の近代民主主義思想を伝え、自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、〈東洋のルソー〉と呼称された。
 ——明治34年4月、紀伊和歌の浦に遊んだが、のどの異常を感じ大阪で診察、余命1年半の診断を受けた。5月に切開手術のあと、9月に帰京。静養を続けるものの病状は悪化の一途をたどり、1年を待たず、12月13日午後7時30分、東京・小石川区武島町(現・文京区水道)の自邸で死去。無葬式、解剖を遺言して、日本で最初の無宗教式告別式がおこなわれた。東京帝国大学医科大学附属医院(現・東京大学医学部附属病院)の遺体解剖により食道がんと判明する。



 

 明治27年、8月28日、東京朝日新聞に〈生前凡骨、逝後神仏に帰すべき霊にあらず、因て神仏葬事を要せず、直に火葬場に於て焼き棄て、骨灰を遺さず、墓地を設けず候に付、旧知諸君の来葬を謹で謝絶す〉との遺言が書かれた死亡広告が載せられている。
 遺言により墓碑はたてず、落合火葬場で荼毘にふされた遺骨は、青山のこの地にある母柳子の墓の隣に埋葬された。大正3年に死んだ妻彌子は兆民埋骨地のとなりに葬られ、翌四年に友人門下生によって埋骨地に「兆民中江先生痙骨(えいこつ)之標」の碑が建てられた。
 昭和17年に死んだ中国学者の長男丑吉は、兆民・彌子夫妻の墓の隣に葬られた。時は鎮まり土庭に並び立つ石柱四基、しがみつく蝉の亡骸、樹影の微睡み、霊魂は何処に。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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