中野重治 なかの・しげはる(1902—1979)


 

本名=中野重治(なかの・しげはる)
明治35年1月25日—昭和54年8月24日 
享年77歳 ❖くちなし忌 
福井県坂井市丸岡町一本田 生家墓地・太閤さんまい



小説家・詩人・評論家。福井県生。東京帝国大学卒。第四高等学校時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになる。大正15年窪川、堀辰雄らと同人雑誌「驢馬」を創刊、詩や評論を発表。プロレタリア文学運動の理論家として活躍、共産党入党、のち除名される。『歌のわかれ』『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』などがある。



 



僕らは仕事をせねばならぬ
そのために相談をせねばならぬ
しかるに僕らが相談をすると
おまわりが来て眼や鼻をたたく
そこで僕らは二階をかえた
路地や抜け裏を考慮して

ここに六人の青年が眠つている
下にはひと組の夫婦と一人の赤ん坊とが眠つている
僕は六人の青年の経歴を知らぬ
彼らが僕と仲間であることだけを知つている
僕は下の夫婦の名まえを知らぬ
ただ彼らが二階を喜んで貸してくれたことだけを知つている

夜明けは間もない

僕らはまた引つ越すだろう
かばんをかかえて
僕らは綿密な打合せをするだろう
着々と仕事を運ぶだろう
あすの夜僕らは別の貸ぶとんに眠るだろう

夜明けは間もない

この四畳半よ
コードに吊るされたおしめよ
すすけた裸の電球よ
セルロイドのおもちやよ
貸ぶとんよ
蚤よ
僕は君らにさよならをいう
花を咲かせるために
僕らの花
下の夫婦の花
下の赤ん坊の花
それらの花を一時にはげしく咲かせるために
                                                  
( 夜明け前のさよなら)



 

 昭和54年6月、都立駒込病院で白内障の手術をした。術後退院したが、7月に東京女子医科大学病院に再入院。8月24日午後5時21分、手遅れの胆のうがんのため、女優である妻の原泉、娘の卯女、友人の佐多稲子らに看取られながら中野重治は、息を引き取り、8月26日、代々幡火葬場で荼毘に伏された。
 かつて同志小熊秀雄の葬式に際し、〈千早町三十番地東荘〉をたずね、『そこに君は』をしるした。〈そこに君は棺のなかに横たわる ……君の棺を眺め 僕は死にたるとき棺おけ  に入れられたくなりくる〉と。
 告別式は9月8日、青山葬儀所で挙行された。祭壇には遺骨と既刊全集27冊、季節の花、プロレタリア作家中野重治の記憶はここで終わった。



 

 心地よい風が吹き渡るこの地は「中野家」だけの「さんまい」である。昔、太閤秀吉が天下人になった後、全国で検地を行った時に訪れて、接待の礼にと先祖の埋葬の地として授けられたのがこの「太閤さんまい」であるという。ただし、この説は定かではない。
 生家跡の裏を通る村道から用水路を挟んだ畦道づたいにたどりついた墓地。稔りをむかえ、黄色く色づいた稲穂の浪に揺られて、離れ小島の様相を呈したこの草むらには、松や榎などが植えられ、小さな数基の先祖墓が並んでいる。端っこの妻原泉筆「中野累代墓」、赤みを帯びた石柱は、越前の一集落の点景として悠久と建っている。
 〈お前は歌ふな お前は赤まんまの花やとんぼの羽根を歌ふな〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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