中島 敦 なかじま・あつし(1909—1942)


 

本名=中島 敦(なかじま・あつし)
明治42年5月5日—昭和17年12月4日 
享年33歳 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園16区2種33側11番


 
小説家。東京府生。東京帝国大学卒。昭和8年私立横浜高等女学校に赴任。16年教職を辞し、パラオ南洋庁に赴任、翌年帰国。17年『山月記』と『文字禍』を『古譚』として発表。次いで発表した『光と風と夢』が芥川賞候補になり注目されたが、その年末に病死した。没後『李陵』等の遺稿が発表された。



 
 



 己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもゐるのだ。虎と成り果てた今、己は漸くそれに気が付いた。それを思ふと、己は今も胸を灼かれるやうな悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとへ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにした所で、どういふ手段で発表出来よう。まして、己の頭は日毎に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。さういふ時、己は、向ふの山の頂の巌に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かに此の苦しみが分って貰へないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮ってとゐるしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持ちを分って呉れる者はない。恰度、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかったやうに。己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。
                                                       
(山月記)

 


 

 喘息に悩まされながら、休み休み勤めていた私立横浜高等女学校を退職し、国語教科書編集書記として南方パラオ島に赴任したのは32歳の時であった。戦争の激化とその喘息のため翌17年3月に帰国。世田谷の父宅で静養の日々を過ごしていたのだが、10月中旬より発作が烈しくなり、身体の衰弱が著しく進んでいった。
 11月に世田谷・岡田医院に入院した。しかし回復することなく12月4日午前6時、気管支喘息のため絶筆『李陵』を遺して世を去った。病院で息を引き取った敦を、妻のタカは膝に抱きかかえて人力車に乗って帰宅したその光景を思い浮かべて、私は息を飲んだ。父が病院で死んだ時、同じように膝に抱いて兄の運転する車に乗って帰ったことがあったものだから。



 

 パラオに出発する前の昭和16年6月、深田久弥に託した『古譚』草稿と『光と風と夢』は、久弥の推薦で『文学界』に掲載された。『光と風と夢』は芥川賞候補になり中島敦の文学的出発となったが、その頃になると宿痾の喘息が悪化して敦の体力はもう限界をむかえていた。敦の作品には内向的で人を介入させない「暗」の部分と明朗活発な「明」の部分を持った敦自身の二面性が適度に響き合っているように感じる。
 没後30年目にタカ夫人等によって建てられた「中島 敦」墓は、中島家の塋域の一角、自然石の台石の上で秋の陽を右肩に受け、わずかばかりの冷気と一時の安息、やわらかな階調の陰翳を映して瞑想するかのように立ちすくんでいた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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