本名=大江賢次(おおえ・けんじ)
明治38年9月20日—昭和62年2月1日
享年81歳
東京都東村山市萩山町1丁目16–1 小平霊園13区7側9番
小説家。鳥取県生。溝口小学校卒。小作農の家に生まれ、小卒後、農事の暇に炭ガマ作り、トンネル工事などに従事、傍ら好きな文章修行を続ける。武者小路実篤の「新しき村」に共鳴、のちに片岡鉄平の影響でプロレタリア文学を目指す。昭和5年「改造」の懸賞小説二席となった『シベリア』が出世作となる。戦後の作品に砂川事件を取材した『群衆』や自伝『アゴ伝』があり、ほかに『絶唱』『望郷』などもある。
……山のふるすへ
行ってみてごらん
かわいい目をしたいい子だよ……
うたい終った余韻のたゆとう静かなひととき、思いがけない奇蹟が起ったのである。
小雨にけぶる靄のかなたから、僕たちに相呼応して—— 山鳩がないたのだ。いや、たしかに小雪が呼んだのだ!
「小雪! 小雪! おうい…… 小雪よう!」と、僕は呼んだ。
それから、なかばもの狂わしそうに小雪の墓標にしがみついて、頰ずりをしながら脚がズルズルとくずれ折れてひざまずくと、土饅頭のぬれた地面へ顔をおしあてて……慟哭した。 ……このとき、もろもろの僕にまつわりついて、悩み煩わした瑣末な雑念がケシとんで、虚飾のみじんもないただあるがままの園田順吉が、赤裸々にノタうっていた。 すでにいま、つねづね醜態ときめて抑制していたこの慟哭のふるまいも、かくしだてのない本然の美点となって光耀とかがやき、まことに単純な愛しいひとを哀悼するこの涙にいつさい。が洗い浄められて、もはやメフィストのしのびこむいとまもない僕は人間らしい、人間にひたりきっていた。……
(絶唱)
プロレタリア作家の例にもれず、戦前の賢次もまた検挙、拷問の日々を経て作家としてようやく生計を立てられるようになったが、戦後の出版ブームにあっても、不器用な賢次は生活苦と闘いながら書下ろし長編を書き続けるしかなく、昭和33年に出版した『絶唱』が映画化されたことによって長かった借金地獄から抜け出すことができた。晩年は胆石病、前立腺肥大、白内障、心筋梗塞などで入退院を繰り返し、昭和62年2月1日、夕食後に心臓発作で倒れ、浄風園・中野江古田病院に救急車で運ばれるも、午後8時41分に息を引き取った。書斎の引き出しに残された遺言とも思える文に〈小生お先にごめんこうむります/ごきげんよろしゅう/微笑んで枯野の中に別れけり 顎山人〉とあった。
告別式は2月3日に中野区江古田の自宅で行われ、無宗教のため戒名はなし、遺影の代わりに彫刻家菅原安男が制作した賢次の首像が飾られた。遺骨は小平霊園に納骨され、昭和53年秋、鳥取県伯耆町宮原に帰郷した折、大江家の墓地を整理、二十基に近い墓を寄せ墓とし、一隅に賢次の愛してやまなかった日野川から白線の入り乱れた青石を選び無銘の自らの墓碑と定めた墓にも分骨された。幾年月か経たある春の日、乱れ草を踏み分けて入った武蔵野の墓原に、故郷日野川の石かどうか私には分からないのだが、白線の入り乱れた青石の上に「大江」と刻まれた赤石が乗った大江家の墓が雨に濡れそぼって、ただ飄然と立っていた。
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