岡倉天心 おかくら・てんしん(1863—1913)


 

本名=岡倉覚三(おかくら・かくぞう)
文久2年12月26日(新暦2月14日)—大正2年9月2日 
享年50歳(釈天心)
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園1種イ4号14側 
茨城県北茨城市大津町五浦 旧天心邸近くの丘の斜面 



評論家・美術史家。武蔵国(神奈川県)生。東京帝国大学卒。大学在学中にフェノロサを知る。明治19年フェノロサとともに欧米に渡る。22年東京美術学校(現・東京藝術大学)の創立に尽力。30年橋本雅邦や門弟横山大観・菱田春草らをひきいて『日本美術院』を創立。『東洋の理想』『日本の覚醒』『茶の本』などがある。



 染井霊園

 茨城県・五浦


 

 うれしいにつけ悲しいにつけ、花はわれわれの不断の友である。われわれは花とともに食い、飲み、うたい、踊り、たわむれる。花を飾って結婚し、洗礼式をおこなう。花がなくては死ぬこともできない。われわれはゆリの花をもって礼拝し、蓮の花をもって瞑想し、ばらや菊の花を身につけて陣列を組んで突撃した。さらにはまた、花言葉で語りかけようとさえくわだてた。花なくしてどうして生きてゆけようか。花をうばわれた世界など考えてもおそろしいことである。花は病める枕辺になんという慰めをもたらすことであろうか。疲れ果てた心の翳に、なんというしあわせの光をともすことであろうか。花のもつ清らかなやさしさは、宇宙にたいしてうしないかけていたわれわれの信頼を回復してくれる。それはちょうど、うつくしい子供をじっと見つめていると、うしなわれていた希望がよぴ覚まされてくるのに似ている。われわれが泉下に葬り去られるとき、悲しげに墳墓の上を低回するのは花である。

(茶の本)

 


 

 人間が人間らしく生きた見本のような岡倉天心の生涯であった。
 奔放な精神をもって世界を回り、想いのままに自らを燃焼させたその驚異的な時代の先駆者は、大正2年9月2日午前9時、新潟県妙高高原・赤倉の山荘で腎臓炎悪化のため50年の歩みを止めた。
 死の一か月前にカルカッタの恋人・女流詩人プリヤムヴァダ・デヴィー・バネルジー夫人に宛てた手紙に記された英詩〈私が死んだら 鐘を鳴らすな 幟を立つるな 寂しい浜辺の松葉の下深く 静かに埋めよ----かの女の詩をわが胸に乗せ 浜千鳥をしてわが挽歌をうたわせよ もしわが碑を建てんとならば 少しの水仙と香ぐわしき梅樹を植えよ あるいは遠き未来の霧の夜 甘き月光の上にかの女の足音を聞くやも知れず〉。(岡倉古志郎訳)——清新な詩の戒告である。



 

 天心の墓は、東京・染井霊園にある墓と、茨城県五浦海岸の旧天心邸に近い丘の斜面にある墓との二つが存在する。
 草むらを頭に頂いた石室の扉に「釈天心」と刻された染井の墓は、あのエネルギー溢れた天心の魂が飛び散ってしまうのを抑えるかのように、古色蒼然として鎮まっているのだが、没年の大正2年に天心の辞世とされた〈吾逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて 落ち葉に深く埋めてよ 十二万年明月の夜 弔い来ん人を松の影〉と戒告の英詩に込められた遺志に沿って染井の墓から分骨され、近代日本美術黎明の地五浦にも埋葬されてある。
 芝草の土饅頭の下深くに鎮められた魂は、読書と詩作に耽った六角堂を見下ろしながら浜千鳥の挽歌を聞いている。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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