尾崎一雄 おざき・かずお(1899—1983)


 

本名=尾崎一雄(おざき・かずお)
明治32年12月25日—昭和58年3月31日 
享年83歳 
神奈川県小田原市下曽我谷津 生家墓地



小説家。神奈川県生。早稲田大学卒。志賀直哉に師事する。短編集『暢気眼鏡』で昭和12年度芥川賞を受賞し、作家として地位を確立した。三島由紀夫は尾崎の作風を「着流しの志賀直哉」と呼んだ。『虫のいろいろ』『すみっこ』『まぼろしの記』『虫も樹も』『あの日この日』などがある。



 


 

 私がこの世に生れたその時から、私と組んで二人三脚をつづけて来た「死」といふ奴、たのんだわけでもないのに四十八年間、黙って私と一緒に歩いて来た死といふもの、そいつの相貌が、この頃何かしきりと気にかかる。どうも何だか、いやに横風なつらをしてゐるのだ。
 そんな飛んでもない奴と、元来自分は道づれだったのだ、と身にしみて気づいたのは、はたち一寸前だったらう。つまり生を意識し始めたわけだが、ふつうとくらべると遅いに違ひない。のんびりしてゐたのだ。
 二十三から四にかけて一年ばかり重病に倒れ、危ふく彼奴の前に手を挙げかかったが、どうやら切り抜けた。それ以来、くみし易しと思った。もっとも、ひそかに思ったのだ。大っぴらにそんな顔をしたら彼奴は怒るにきまってゐる。怒らしたら損、といふ肚だ。急に歩調を速めだしたりされては迷惑する。
 かういふことを仰々しく書くのは気が進まぬから端折るが、つまるところ、こっちは彼奴の行くところへどうしてもついて行かねばならない、じたばたしようとしまいと同じ----このことは分明だ。残るところは時間の問題だ。時間と空間から脱出しようとする人間の努カ、神でも絶対でもワラでも、手当り次第栖まうとする努力、これほど切実で物悲しいものがあらうか。一念万年、個中全、何とでも云ふがいいが、観念の殿堂に過ぎなからう。何故諦めないのか、諦めてはいけないのか。だがしかし、諦め切れぬ人間が、次から次と積み上げた空中楼閣の、何と壮大なことだらう。そしてまた、何と微細セン巧を極めたことだらう。----天井板に隠現する蜘蛛や蝿を眺めながら、他に仕方もないから、そんなことをうつらうつらと考へたりする。
                                              
(虫のいろいろ)

 


 

 昭和19年、胃潰瘍の大出血で梅林の里、郷里小田原市下曽我に戻り、〈一日の大半を横になって、珍しくもない八畳の、二、三ヶ所雨のしみのある天井をまじまじと眺めている時間が多い〉生活者となっていた。
 庭木を通して眺める富士は美しかったが、〈俺はこのごろ、何か墓場へもぐる準備ばかりしているやうだが、実は、さうではないのだ、と思ふ。すべては「生」のためだ。人間のやることに、「死」のためといふことはない。(略)人間は「生」のためには、自殺さへする〉——とも書く。
 志賀直哉を師と仰いだ尾崎一雄に死が訪れたのは、それから四半世紀以上も過ぎた昭和58年3月31日のことであったが、黙って静かに夫人の手を取り、穏やかで幸福な一瞬であった。



 

 祖父の代までは神主をしていたという宗我神社の大鳥居下に立つと、広い参道が神社まで一直線にのぼっている。境内の少し手前には、尾崎一雄がその死まで暮らしていた住まいがある。
 『暢気眼鏡』に登場する〈芳兵衛〉こと松枝夫人が、謡いの師匠をしながら固守しておられたそうだが、平成17年、93歳で亡くなられた。
 家と家に挟まれた左手前の細い畑道をたどると、蜜柑畑にかこまれた〈美しい墓地からの眺め〉が悠揚と現れた。先祖とともに尾崎が葬った父や母、妹、弟、子供も眠る八坪ほどの尾崎家墓地。昭和29年に建てた「尾崎家之墓」にはウイスキーの瓶が献じられている。温かな陽ざしも加わって、たわわな蜜柑をこっそりとひともぎしたくなった。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

    


   大岡昇平

    大木惇夫

   大須賀乙字

   大杉 栄

   太田水穂

   大田洋子

   大塚楠緒子

   大手拓次

   大西民子

   大庭みな子

   大原富枝

   大町桂月

   大宅壮一

   大藪春彦

   岡倉天心

   尾形亀之助

   岡田八千代

   岡野知十

   岡 麓

   岡本かの子

   岡本綺堂

   小川国夫

   小川未明

   荻原井泉水

   奥野信太郎

   小熊秀雄

   小栗虫太郎

   長部日出雄

   尾崎一雄

   尾崎喜八

   尾崎紅葉

   尾崎士郎

   尾崎放哉

   尾崎 翠

   小山内薫

   大佛次郎

   小沢昭一

   織田作之助

   小田 実

   落合直文

   折口信夫