尾崎 翠 おさき・みどり(1896—1971)


 

本名=尾崎 翠(おさき・みどり)
明治29年12月20日—昭和46年7月8日 
享年74歳(翠作院釈浄慧大姉)❖翠忌 
鳥取県鳥取市職人町45 養源寺(浄土真宗)



小説家。鳥取県生。日本女子大学中退。『女人芸術』に翻訳、短編、映画評論などを寄稿していた。昭和6年『第七官界彷徨』を発表。翌年短篇『こほろぎ嬢』『地下室アントンの一夜』を発表したが、神経を病んで帰郷。のち、筆を折った。『アップルパイの午後』短篇『歩行』などがある。




 


 

 かくて、静かな葬列は、いろんな思ひをのせ、着くべきところへ向つて流れたのである。けれど人々は、ふいおな・まくろおどの居場所について皆思ひ誤ってゐた。嬢はいま、人に知られぬ処、ゐりあむ・しやあぷの骸のなかに、肉身を備へない今一人の死者として横はり、人知れぬ葬送を受けてゐたのである。ふいおな・まくろおどは、まつたく幻の女詩人であつた。詩人しやあぷの分心によって作られた肉体のない女詩人。それゆえ嬢は、よき人しやあぷとともに地上から消えた。けれど生世のうち、二人の艶書のやりとりは、それは間ちがひのない事実であつた。分心詩人ゐりあむ・しやあぷの心が男のときはしやあぷのペンを取ってよき人まくろおどへの艶書をかき、詩人の心が一人の女となったとき、まくろおどのペンを取つてよき人しやあぷへ艶書したのである。かかるやりとりについては、今後時を経て、「どつぺるげんげる」など難かしい呼名のもとにしやあぷの魂をあばく心理医者も現はれるであらう。また、ふとして、東洋の屋根部屋に住む一人の儚い女詩人が、彼女の儚い詩境のために、異国、水晶の女詩人を、粗末なペンにかけぬとも言へないのである。心理医者、そして詩人。何といふ冒涜人種であらう。いつの世にも、彼等は、えろすとみゆうずの神の領土に、まいなすのみを加へる者どもである。彼等が動けば動くだけ、ゐりあむ・しやあぷの住んでゐたみすてりの世界は崩されるであらう。
                            
(こほろぎ嬢)

       

 

 〈私はひとつ、人間の第七官にひびくやうな詩を書いてやりませう〉——。
かつて奇妙な風に乗って一人の作家が晩秋の都に舞い降りた。恋する蘚(こけ)をうたい、輝きを隠し持った「女の子」を薄明かりの中に揺と立たせ、沈潜した意識と不可思議な感覚は時を超えて浮揚した。しかし、頭痛薬の多量服用から幻覚や耳鳴りなど神経を病み、文壇の一隅に驚嘆と幻想と波紋を残し、忽然とその場所から消えた尾崎翠。幻の作家と人はいう。
 再び尾崎の名が世に浮かび上がったとき、彼女の命は薄れ、昭和46年7月8日、鳥取駅前済生会病院の一室に風は寥々と落ちた。
 ——〈おもかげをわすれかねつつ こころかなしきときは ひとりあゆみて おもひを野に捨てよ〉。



 

 山脈のひだを擦り抜けるように電車は北に向かった。刈り取りが始まった稲田の畦道には彼岸花が点々と咲いている。時おり群生して見えるのはたいてい村落の共同墓地であった。山狭の空は寂しく蒼めいて、翠の故郷は溶明していく。
 鳥取砂丘に続く若桜街道を右に逸れた一筋に、次兄哲郎が住職であった養源寺という小さな寺がある。かつて〈お母さん、私のやうな娘をおもちになったことはあなたの生涯中の駄作です。チャップリンに恋をして二杯の苦い珈琲で耳鳴りを呼び、そしてまた金の無心です。(略)いつも貧乏です。私が毎夜作る紙反古はお金になりません。私は枯れかかった貧乏な苔です〉と文した尾崎翠。わずかばかりの墓域の最奥、「納骨處」と刻され古斑の碑に翠の安息があるのかどうかは知る由もない。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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