尾形亀之助 おがた・かめのすけ(1900—1942)


 

本名=尾形亀之助(おがた・かめのすけ)
明治33年12月12日—昭和17年12月2日 
享年41歳(自得院本源道喜居士)
宮城県柴田郡大河原町254 繁昌院(曹洞宗)



詩人。宮城県生。東北学院中退。村山知義らと前衛美術団体マヴォを結成するが、大正13年頃より詩作に専念。『月曜』などいくつかの詩誌を主宰。14年第一詩集『色ガラスの街』を出版、色彩豊かな詩風を示した。ほかに『雨になる朝』『障子のある家』などがある。




 


 

(春になって私は心よくなまけてゐる)

私は自分を愛してゐる
かぎりなく愛してゐる

このよく晴れた
春——
私は空ほどに大きく眼を開いてみたい

そして
書斎は私の爪ほどの大きさもなく
掌に春をのせて
驢馬に乗つて街へ出かけて行きたい
                                 
(『色ガラスの街』春)


 

 仙台市の南に位置する宮城県柴田郡大河原、いわゆる仙南の豪家に生まれた尾形亀之助は在京中も草野心平、村山知義、高村光太郎らの詩人や芸術家らとの親交を深めた。
 父親からの仕送りで詩作に没頭し、都会的な色彩に満ちた詩を書いて優雅・無頼な日々を送っていたのだったが、祖父、父、亀之助と、三代にわたる遊芸生活は、曾祖父が酒造業によって蓄財した膨大な尾形家の財産を食い尽した。最後に残ったのは空虚感、妻と詩友大鹿卓(金子光晴の弟)の不倫や離婚、貧困、死の妄想だけであった。
 すべてと絶縁して、郷里仙台に戻っては市の臨時雇いの官吏として無為に暮らしていたのだが、昭和17年12月2日午後6時10分、喘息と全身衰弱により仙台市木町末無の家で孤独の死を遂げた。



 

 寒風が吹きつける中、大河原町の中央を流れる白石川に架かる橋を渡りながら、北に眺める青麻山や蔵王連峰、両岸に植えられた桜の咲き始める春の華やかな景色を思い浮かべていた。
 「尾形橋」と命名されたこの橋は亀之助の曾祖父尾形安兵が架橋したものだという。橋のほとりの堤沿いにある繁昌院は尾形家の菩提寺であり、初代安兵も祖父も父も眠っている。莫大な資産を蕩尽した亀之助にとっての安住の地であるか否かはわからない。黙然とした「尾崎家之墓」にこそ消滅した詩人の生涯の光芒が宿ってあるのだ。
 〈高い建物の上は夕陽をあびて そこばかりが天国のつながりのように金色に光つてゐる 街は夕暮だ  妻よ——私は満員電車のなかに居る〉。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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