本名=尾崎喜八(おざき・きはち)
明治25年1月31日—昭和49年2月4日
享年82歳 ❖臘梅忌
神奈川県鎌倉市山ノ内189 明月院(臨済宗)
詩人。東京府生。京華商業学校(現・京華学園高等学校)卒。ロマン・ロラン、白樺派に傾倒。大正11年第一詩集『空と樹木』を刊行。以後、自然と人間をテーマに詩や随筆を書いた。戦後7年間、長野県・富士見町に住み、昭和30年『花咲ける孤独』を刊行。ほかに詩集『行人の歌』、随想集『山の絵本』、訳詩集、訳文集が多数ある。

中学の音楽室でピアノが鳴っている。
生徒たちは、男も女も
両手を膝に、目をすえて、
きらめくような、流れるような、
音の造形に聴き入っている。
そとは秋晴れの安曇平、
青い常念と黄ばんだアカシア。
自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、
新任の若い女の先生が孜々として
モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。
(田舎のモーツァルト)
建長寺、東慶寺、北鎌倉駅前を通り大船に向かう鎌倉街道の浄智寺門前の辻、小さな写真屋の軒先に赤いペンキで何回も塗り重ねられたポストが、ちょっと体を傾げながら立っている。ある日、明月院奥の谷戸を下り横須賀線の踏切をわたって、一人の詩人はこのポストに原稿を投函する。それ以来、日がな心待ちしていたポスト君も昭和48年の夏以降、その詩人の姿を見たことがない——。
処女詩集の「序」に、〈人間としての私の存在の理由は、私自身がより強くより正しく生きることによって歌い、より明らかにより美しく歌うことによって生きるという、この単純で熱烈な要求を実行することのほかにはない〉と書きつけ、そのとおりの生涯をつづった幸福な詩人、尾崎喜八。昭和49年2月4日、急性心不全のため逝く。
あじさい寺で有名な北鎌倉明月院に尾崎喜八の墓を訪ねたのは二度目。前回は身内の方、もしくは予約がないと許可できないということで叶わなかったが、今回は予約電話も入れ、早朝から念願の墓参りとなった。
華やかなあじさいの季節にはほど遠く、さながら枯山水のような冬枯れ風景を眺めながら院の奥、やぐらを横目に開山堂裏の墓地に詣でる。わずか10基にも満たない碑が並んでいる。右隅に小さな「尾崎喜八墓」。〈いたるところに歌があった。いくたの優しいまなざしがあり、いくつかの高貴な心があった。こうして富まされたその晩年を在りし日の愛を感謝と郷愁で装うことのできる魂は幸せだ。〉と回顧碑文にある。
遠く山の端を黄金色に輝かせている新鮮な陽も、深く沈んだ谷戸の底にあるこの墓地には届かない。
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