本名=大宅壮一(おおや・そういち)
明治33年9月13日—昭和45年11月22日
享年70歳(衆生院釈茫壮一大居士)
神奈川県鎌倉市二階堂710 瑞泉寺(臨済宗)
評論家。大阪府生。東京帝国大学中退。昭和4年〈大宅翻訳団〉を作り『千夜一夜物語』などを翻訳刊行。8年雑誌『人物評論』を創刊。敗戦後、42年には『大宅壮一東京マスコミ塾』を開塾。後進の育成を行った。『日本の裏街道を行く』『炎は流れる』などがある。

結局、〝思想〟というのは、知識人にとっての脊椎みたいなものだということになる。これのあるなしで、高等動物か下等動物、いや〝高等人間〟か〝下等人間〟かということがきまるのである。むろん、一般大衆にはこれがないものとされている。知識人の仲間入りを許されていながら、これを欠いているものはモグリである、といったような考え方に支配されているものが、古くからこの国には多い。
そこで誰も彼も、争ってなんらかの〝思想〟を手に入れようとするのである。しかも、これには流行があって、最近外国から入ってきたようなものでないと、身につけていてかえって軽蔑される点で、帽子などと同じである。(中略)
私は無帽で外出するのと同じように、無宗教で生きて行くつもりである。これと同じような意味で〝無思想〟でありたいと思っている。現に人類の大きな部分が、無宗教でいて別に何の不便も感じていないのである。〝思想〟についても、今にもきっとそうなるときがくると信じている。いや、今でも人類の多くは、一部の〝思想業者〟が考えているほど〝思想〟にこだわっていない。それが〝共存〟の基盤になるのだ。
(無思想人宣言)
「恐妻」、「駅弁大学」、「男の顔は履歴書」、「口コミ」「太陽族」「一億総白痴化」、これらはみな大宅壮一がつくりだした流行語である。
〈雑草主義〉を標榜、野にあってあらゆる分野において野次馬的評論を試み、大衆の活力を沸き上がらせた。「マスコミ帝王」とよばれ、晩年には『大宅壮一東京マスコミ塾』を開塾し、村上兵衛(評論家)、草柳大蔵(ジャーナリスト)や植田康夫(上智大学名誉教授)など、多くの優秀な人材を育成した。
昭和41年、長男歩の死によって、その旺盛な行動力と気力は決定的に失われ、昭和45年11月22日、東京女子医科大学病院で心不全により亡くなった。同郷同窓の友人川端康成が葬儀委員長を務めた。
天然記念物の黄梅はまだ咲いていないようだが、白い水仙の花が咲きそろって、蝋梅の甘い香りが漂ってくる参道。関東十刹の第一に列せられたこの寺の墓地は、細長く奥行きのあるこじんまりとした谷にあった。
大宅壮一と長男歩の眠る墓は墓地中央に位置する。無思想人を宣言し、無宗教・無神論者の壮一がおとなしくこの石の下に眠っていられるはずもないと思うのだが、同じ墓地に葬られた梶山季之や青地晨と賑やかに麻雀でもやっているのだろうか。
——死の翌年、大宅の収集した膨大な雑誌を基とする蔵書は東京の八幡山に「大宅壮一文庫」として公開され、報道関係、ライターなど御用達の専門図書資料館として多くの人に利用されている。
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