本名=織田作之助(おだ・さくのすけ)
大正2年10月26日—昭和22年1月10日
享年33歳(常楽院章誉真道居士)
大阪府大阪市天王寺区城南寺町1–26 楞厳寺(浄土宗
)
小説家。大阪府生。旧制第三高等学校(現・京都大学)中退。昭和15年青山光二らと創刊した同人誌『海風』に掲載した『夫婦善哉』が認められ、本格的な作家生活に入る。戦後は『六白金星』『競馬』『世相』などを発表、〈無頼派〉の一人として「オダサク」の愛称で親しまれた。『雨』『俗臭』『大阪の女』『わが町』などがある。

2016.02 やわらかな日差しを受けていた
ペンを取ると、何の澁滞もなく瞬く間に五枚進み、他愛もなく調子に乗つてゐたが、それがふと悲しかつた。調子に乗つてゐるのは、自家薬籠中の人物を処女作以来の書き馴れたスタィルで書いてゐるからであらう。自身放浪的な境遇に育つて来た私は、処女作の昔より放浪のただ一色であらゆる作品を塗りつぶして来たが、思えば私にとつて人生とは流転であり、淀の水車のくりかへす如くくり返される哀しさを人間の相と見て、その相をくりかへしくへかえし書き続けて来た私もまた淀の水車の哀しさだつた。流れ流れて仮寝の宿に転がる姿を書く時だけが、私の文章の生き生きする瞬間であり、体系や思想を持たぬ自分の感受性を、唯一所に沈潜することによつて傷つくことから守らうとする走馬燈のやうな時の場所のめまぐるしい変化だけが、阿呆の一つ覚えの覘ひであつた。だから世相を書くといひながら、私はただ世相をだしにして横堀の放浪を書かうとしてゐたに過ぎない。横掘はただ私の感受性を借りたくぐつとなつて世相の舞台を放浪するのだ。なんだ昔の自分の小説と少しも違はないぢやないかと、私は情けなくなつた。
(世相)
坂口安吾・太宰治等とともにデカダンス文学の代表作家といわれた。結果を意識していたかどうか、無謀といえば無謀にも肺患の身を横たえることなく上京し、連日のように出かけては新聞社や出版関係の友人知人たちと談論し、飲む日々を繰り返しているうちに不幸な結果をもたらすことになってしまった。
戦後混乱期のさなか、昭和22年1月10日、最後の喀血のあと午後7時10分、芝田村町東京病院で、「ロマンを発見した」の伝説的な一語を遺し、途半ばにして逝ってしまった。志賀直哉的現代日本文学を否定し、「可能性の文学」の実践を叶えることなく斃れた。病躯を引きずり果敢に攻めまくった壮絶な死であった。その骨を拾った盟友太宰治もまた翌年6月に情死した。
1月11日、芝の天徳寺で通夜が行われ、翌日桐ヶ谷の火葬場で荼毘に付されて太宰治や林芙美子、青山光二などが骨を拾った。23日の葬儀はここ大阪天王寺の楞厳寺で執り行われ、葬儀委員長は同郷の作家藤沢桓夫だった。
スタンダールに次いで師と仰ぐ井原西鶴の墓所・誓願寺墓地に近いこの寺の「織田作之助墓」は、本堂軒下の遮光された空間に、隣地高津高等学校(旧府立高津中学校・作之助母校)校舎の明るさに背を向け、色彩を消し去ったかのような沈鬱な表情で建っていた。とんがり帽子のような形をした自然石の墓石裏面には藤沢桓夫撰文による作之助の生涯が記されていたが、墓石の大きさにまず驚いておもわず、「ちょっと違うな」と呟いてしまった。
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