本名=岡本カノ(おかもと・かの)
明治22年3月1日—昭和14年2月18日
享年49歳(雪華妙芳大姉)❖かの子忌
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園16区1種17側3番
小説家・歌人。東京府生。跡見女学校(現・跡見学園)卒。明治43年『明星』『スバル』に歌を発表、歌人として出発。昭和4年夫の一平、息子の太郎と共に渡仏。7年帰国後、11年に芥川龍之介がモデルの『鶴は病みき』を発表。『春』『老妓抄』『河明り』『生々流転』などがある。
太郎に、じかに逢いたくってもう手紙なんか書くのうんざりだ。じかに逢いたいんだよ。太郎を想うこころがのりうつるんだろうか、お前に似た青年や、年頃の男の人にこの頃親愛を感じて仕方がない。
(中略)
私は、今頃、恋を感じて仕方がない。前に自分の書いた蓮月尼の芝居なんか見ると、いやにさとりすました女性が小憎らしくって仕方がない。けども間違いなんか重々ひき起さないさ。だって私のまわりには人間的にすばらしい愛が満ち満ちてるもの。ただ胸をいためて、一人で泣いてるくらいさ。かりに恋をするとしてもいとも大支夫な恋をするさ。(目下なんらの実現はなし)
純文芸の小説なんかどんどん書けば恋はひとりでにそのなかに浸透するさ。お前のこの間くれた手紙すばらしいよ。私は芸術家だから芸術の神にぬかずけばいいんだよ。だが大乗仏教はそれさえみとめてくれるんだよ。芸術に奉仕する時は、仏が芸術の神になってくれるのだよ。この点ジイドのひねくっているカソリックの神なんかとすっかりちがうんだよ大乗仏教は。
(太郎への手紙)
兄大貫晶川の影響で文学の道に踏み出したかの子は、与謝野晶子の新詩社に入り、歌や詩を発表していく。
19歳の時に出会った美術学生岡本一平との出会い、結婚によって生じた、衝突や意思のすれ違いなどに悩み、仏教に救いを求めるようになった。観音信仰に篤かったかの子は、水晶の観音像の編袋を一生肌身離さず、〈白梅の盛れる今日よ水晶の 持仏観音拭きたてまつる 紅梅のいろ近くしてくれなゐに 染みたまひけり水晶仏は〉という歌を詠っている。
晩年になって芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』で小説家としても歩み出したのであったが、昭和13年12月、三回目の脳溢血に倒れ、自宅静養を続けていた翌年の2月17日、病状が急変し入院。18日「観音様の日」に亡くなった。
昭和4年から、かの子は家族と外遊し、ひとり太郎をパリに残して帰朝する。再び相見る事のない別離であった。
——かの子の遺体は火葬が嫌いといっていた言葉に添って土葬され、「雪華女史岡本かの子之墓」と書かれた墓標が建てられたと聞くが、時を経て、いまこの方形の広い塋域には、水晶の観音様と共に埋葬されたかの子の墓に観音立像が安置され、太郎の造形になる一平の墓が並んでいる。川端康成による追悼文の碑が傍らに、対面にはかの子と一平、二人の墓を両肘ついて眺めている愛息太郎の墓があった。緑陰の参り道に身を置く私に、陽は烈しく風を遮って一つの空間を造ってくれていた。
〈年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐいのちなりけり〉。
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