岡野知十 おかの・ちじゅう(1860—1932)


 

本名=岡野敬胤(おかの・けいいん)
安政7年2月19日(新暦3月11日)—昭和7年8月13日 
享年72歳(本覚院知十日法居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園6区1種16側



俳人。蝦夷(北海道)生。明治28年毎日新聞に『俳壇風聞記』を連載、当時の俳壇を新派の子規派をはじめ尾崎紅葉らの新派、 また伝統旧派までを広く見渡しながら興趣深く語る。評判を得『半面 』を創刊、新々派と称し半面派を形成した。 句集『鶯日』編著』『一茶大江丸全集』『也有全集』などがある。



 


 

おねむいかお首ゆらつく古ひゝな

雨華庵の朝酒盛やむし鰈

衣かへて鏡に対す大あばた

日輪の地に輝きて牡丹かな

桶に浮く鯰の髭や夏の月

六日月細き一葉とちりうせて

生きのびる心うれしや春の膳

悲しみの極み吹奏す落花哉

石鰈石持に秋立ちにけり

 


 

 〈嫌いなものは出しゃばりと旅行、江戸趣味に転居〉というほどに、岡野知十は人後に落ちない趣味人であった。知十の他にも正味、綾川、借蒼居、我物庵、傘雪、月庵、味余亭、清浅窓などあきれるほど様々な筆名をもちいている。
 北海道日高様似(現・様似郡様似町)生まれではあったが、江戸っ子気質そのものであったようだ。著書「俳趣画趣」において、「写生式」に対し「図案式俳句」を唱えたが、大正4年、中根岸に移ってからは俳壇とは没交渉の落ち着いた生活を送った。
 昭和7年2月、体調を崩し、熱海で保養、鎌倉稲村ヶ崎黄鳥荘に転じてからは散歩などの静かな日々であったが、8月13日午後1時、胃がんのため死去した。



 

 亡くなる5年前に守田勘弥にすすめられるまま決めたのだが、「俺には寂しすぎる」といっていたという墓所。曲折した樹枝の向こうに、勢い盛んな緑陰を携えた碑が穏やかに屹立している。
 一周忌に建てられた「岡野氏墓」、家庭は円満、四男四女をもうけたが、不幸にして先だった五人の子供の名も刻まれた墓誌が左に、〈釜かけて誰待つとしもなく雪に〉の青石句碑がどっかりと右に座している。
 知十、一周忌の記念に贈られた雪、月、花の句碑のひとつ、月の句碑〈名月や銭かねいはぬ世が恋し〉は江東区冬木弁財天境内に、花の句碑〈仏生も復活も花笑ふ日に〉は北区王子の飛鳥山公園にあるそうだが、私はまだ見る機会がない。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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