小山内 薫 おさない・かおる(1881—1928)


 

本名=小山内 薫(おさない・かおる)
明治14年7月26日—昭和3年12月25日 
享年47歳(蘭渓院文慈薫居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園5区1種1側37番
 



劇作家・演出家。広島県生。東京帝国大学卒。明治39年散文詩集『夢見草』、詩集『小野のわかれ』を発表。40年第一次『新思潮』を創刊。小説として大正2年、自伝的小説『大川端』を発表。13年土方与志と築地小劇場を創立。『第一の世界』『西山物語』『亭主』『奈落』などの戯曲がある。日本新劇界の先駆者。



 


 

島村  ですから、僕はここを離れたいのです。
主人  ここを出て、何処へ行くのだ。
島村  それも分りません。僕は唯世間へ出て行かうと思ひます。先生の世界は余りに脆いものでした。世間に一度觸れると、直ぐに毀れてしまひました。先生はこれでもまだ、先生の世界を幸福だと思ってゐるのですか。この卵のやうに脆い世界を。先生の世界も、もう絶望ですね。
主人  いや、俺はやつと俺の行きつく処へ来たのだ。(側にある書物を取り上げる)ここに露西亜の人の書いた詞がある。(訳しながら読む)「絶望は人生に於ける崇高な瞬間だ。そこへ来るまでは、吾々はまだ何かに助けられてゐるのだ。吾々は今始めて吾々自身になつた。前には、吾々は人間や人間の律と関係があつた。今、吾々と関係のあるのは、もう永遠だけだ。吾々は律といふものと完全に手を切る事が出来たのだ。」
島村  それは負け惜しみです。(行きかける)
主人  これからだ。俺の本当の生活はこれからだ。
                                                             
(第一の世界)

 


 

 明治42年、欧州から帰朝した二代目市川左団次と自由劇場を起ち上げ、第一回公演としてイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を上演、ヨーロッパ近代劇を採り入れた新劇運動の先頭を切って、近代演劇の基礎を築いた小山内薫。日本近代演劇の開拓者として「新劇の父」と称された小山内の生涯にも終わりが待っていたのであった。
 昭和3年12月25日、暮れ冬の暖かな日であったが、クリスマスのその夜は日本劇壇にとって最も不幸な夜となった。日本橋偕楽園で催された上田(円地)文子の処女戯曲『晩春騒夜』上演慰労会に出席した小山内薫は、午後7時40分頃、心臓麻痺を起こして、駆けつけた主治医の手当の甲斐なく11時過ぎに急逝した。



 

 仲間内から「アポロ」とも呼ばれていた小山内薫。森鴎外や島崎藤村、尾崎紅葉らに野心的に近づいていった彼を第一高等学校時代からの友人川田順は〈鴎外にも藤村にも早く近づきてわれら仲間の目を乱(ひら)かしむ〉と詠んだ。
 ——葬儀の翌朝、桐ヶ谷の火葬場で骨上げされた遺骨は、この霊園の5区1種1側の地に、25日の朝に小山内が探していたという『演出者の手記』と、読みかけのユウヂン・オニールの戯曲『スツレンヂ・インタァルウド』を共に埋め、墓標がたてられた。
 訪れた塋域には四基の墓石が並ぶ。両親の墓に挟まれてある「小山内薫之墓」は、ともに自由劇場を結成した二代目市川左団次の筆を刻した慎ましい碑であった。——〈歌舞伎を離れよ。伝統を無視せよ。踊るな、動け。歌ふな、語れ〉 。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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