大手拓次 おおて・たくじ(1887—1934)


 

本名=大手拓次(おおて・たくじ)
明治20年11月3日(戸籍上は12月3日)—昭和9年4月18日 
享年46歳(大慈院英学拓善居士)
群馬県安中市磯部3丁目 共同墓地



詩人。群馬県生。早稲田大学卒。大正元年『朱欒』に『藍色の蟇』『慰安』を発表。萩原朔太郎、室生犀星とともに北原白秋門下の三羽烏と呼ばれていた。生涯に2400篇もの詩を書き、発表も盛んに行っていたのだが、生前ついに一冊の詩集も発刊されることはなかった。死後、詩集『藍色の蟇』などが刊行された。






 

うすももいろの瑪瑙の香炉から
あやしくみなぎるけむりはたちのぼり、
かすかに迷ふ茶色の蛾は
そこに白い腹をみせてたふれ死ぬ。
秋はかうしてわたしたちの胸のなかへ
おともないとむらひのやうにやつてきた。
しろくわらふ秋のつめたいくもり日(び)に、
めくら鴉(がらす)は枝から枝へ啼いてあるいていつた。
裂かれたやうな眼がしらの鴉よ、
あぢさゐの花のやうにさまざまの雲をうつす鴉の眼よ、
くびられたやうに啼きだすお前のこゑは秋の木(こ)の葉をさへちぢれさせる。
お前のこゑのなかからは、
まつかなけしの花がとびだしてくる。
うすにごる青磁の皿のうへにもられた兎の肉をきれぎれに噛む心地にて、
お前のこゑはまぼろしの地面に生える雑草である。
羽根をひろげ、爪をかき、くちばしをさぐつて、
枝から枝へあるいてゆくめくら鴉は、
げえを げえを とおほごゑにしぼりないてゐる。
無限につながる闇の宮殿のなかに、
あをじろくほとばしるいなづまのやうに
めくら鴉のなきごゑは げえを げえを げえをとひびいてくる。
                       
(盲目の鴉)

 


 

 昭和9年4月18日、神奈川県茅ヶ崎のサナトリウム南湖院で結核のため46年の生涯を閉じた。
 詩人は妻を娶ることもなく孤独な生活の中で一心に詩作に取り組んだが、生前ついに一冊の詩集も出すことは叶わなかった。萩原朔太郎、室生犀星とならんで北原白秋門下の三羽烏と称され、フランス象徴詩の影響下で特異な花をひっそりと咲かせた。詩人の処女詩集『藍色の蟇』は死の2年後、白秋や朔太郎らの手によって出版された。序文に白秋は記している。
 〈いみじき宝玉の函はいつよりか猟奇の手に開かれてあり、決して巌窟の闇に埋れてあつたといふ訳でもなかつた。運不運といふ事があるとしたら、君は不運の星から永らく見守られてゐたと云へる〉。



 

 磯部の駅に降り立ったとたんに再び雨が降りだした。駅前広場の袖、磯部温泉への道筋に精気はなく、濡れそぼった廃屋の下見板がやけに際だって見える。突き当たりにある公園には幾多の文学碑が建っている。拓次の詩碑もあった。緑陰をぬけると碓井川が見下ろせる橋に出た。袂に幾許かの碑がかたまった墓地があり、一隅に拓次につながる大手家の塋域があった。
 〈凡て詩の根底は、少年に於て象徴されてをる。白色の花である。眠りである。天真である。情感である。宇宙一体である。美の音楽である。最後に神(普遍的意味)である〉と拓次は詩の本質を捕らえた。その墓碑をキンケイギクの一叢がひときわの明かりとなって、浮かび上がらせていた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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