本名=大岡昇平(おおおか・しょうへい)
明治42年3月6日—昭和6年12月25日
享年79歳
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園7区2種13側22番
小説家。東京府生。京都帝国大学卒。応召し、俘虜生活を体験。昭和24年その体験を描いた『俘虜記』で横光利一賞を受賞、〈第一次戦後派〉として知られる。25年長篇小説『武蔵野夫人』を発表、『野火』で読売文学賞を受賞。『花影』『ミンドロ島ふたたび』『レイテ戦記』『中原中也』などがある。

私は半月前中隊を離れた時、林の中を一人で歩きながら感じた、奇妙な感覚を思ひ「出した。その時私は自分が歩いてゐる場所を再び通らないであらう、といふことに注意したのである。
もしその時私が考へたやうに、さういふ当然なことにわたしはが注意したのは、私が死を予感してゐたためであり、日常生活における一般の生活感情が、今行ふことを無限に繰り返し得る可能性に根ざしてゐるといふ仮定に、何等かの真実があるとすれば、私が行ふことを前にやったことがあると感じるのは、それをもう一度行ひたいといふ願望の倒錯したものではあるまいか。未来に繰り返す希望のない状態におかれた生命が、その可能性を過去に投射するのではあるまいか。
「贋の追想」が疲労その他何等かの虚脱の時に現はれるのは、生命が前進を止めたからではなく、ただその日常の関心を失ったため、却って生命に内在する繰り返しの願望が、その機会に露呈するからではあるまいか。
私は自分の即興の形而上学を、さして根拠あるものとは思はなかったが、とにかくこの発見は私に満足を与へた。其れは私が今生きてゐることを肯定するといふ意味で、私に一種の誇りを感じさせたのである。
(野 火)
19歳の時、小林秀雄を知りフランス語の個人教授を受けることから始まった文学への道筋、河上徹太郎、青山二郎、白洲正子などとの交友も得た。
昭和19年、召集されて赴いたフィリピン戦線での戦争体験を描いた『俘虜記』で横光利一賞を受賞したことが文学的出発となった。
——〈そして私は死を怖れなくなった。私はスタンダールに倣って自分の墓碑銘を選び、ノートの終りに書きつけた。「孤影悄然」といふのである〉『俘虜記』の中で彼はこう書いている。俘虜として生き残り、自分の魂の置き場をどうするべきか、「死」を踏み越えたところに文学の足場を定めた作家大岡昇平は、昭和63年12月25日午後3時12分、心臓病検査のため入院中の順天堂大学医学部附属順天堂医院で脳梗塞併発のため永眠した。
「ケンカ大岡」との異名があるほど論争を繰り返した。井上靖、海音寺潮五郎、松本清張、篠田一士、江藤淳、森鴎外までやり玉に挙げ国文学者と論争になった。それほどにも硬骨漢であった作家の墓に「大岡昇平」の文字が何処にも見あたらず、ただ「大岡家之墓」とのみ彫られていた。
昭和初期に東京市が売り出したこの墓地の裏通りにある土地を、父貞三郎が自分と妻のために購入し、墓を建てたものであるが、遺志により葬儀・告別式も行われなかった作家のよりどころが感じられるようで好感をおぼえた。
戦後を代表するベストセラーとなった『武蔵野夫人』、武蔵野を歩き、武蔵野を書いた昇平の安息の地は、まぎれもなく武蔵野の空の下にあった。
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