本名=植村宗一(うえむら・しゅういち)
明治24年2月12日—昭和9年2月24日
享年43歳 ❖南国忌
神奈川県横浜市富岡東3丁目23–21 長昌寺(臨済宗)
小説家。大阪府生。早稲田大学中退。大正12年『文芸春秋』創刊と同時にこれに参加。昭和3年『由比根元大殺記』で認められ、『仇討浄瑠璃坂』『南国太平記』『楠木正成』『青春行状記』などを発表。大衆文学の向上に貢献した。『新作仇討全集』『荒木又右衛門』『明暗三世相』などがある。
社会はどうなるだろうか?思想はどう結末するだろうか?誰も今日、それに対して明快に答え得るものは無いのであろうか?已の立っている土台が動いているのである。婦人は、封建的貞操を棄てんとしつつ、而も、それに代る道徳を見出し得ない。男子は、古き衣を脱いだが、新らしき着物を知らない。社会は、一革命を起さんとしつつも二つの勢力は対等に抵抗しあっているのである。
今や、ヨーロッパ文明は沈消して、アメリカ資本主義のジャズ文明の洪水は、世界の人達を溺らそうとしている。人々は、或は、憤然として奥床しく、深淵なるものの犯されていくのを慨歎するであろう。しかも、慨歎しながらも彼等は共に、その世界に氾濫したアメリカ文化の濤に捲込まれ、流されて行かざるを得ないのである。ラジオに、ジャズに、シネマが横行する。人々は、それに感染して、行く所を知らない。
この加速度的な生活の目眩ろしさは、人々が垂れこめて、深く思索にふける余裕を与えない。人々は我知らず、生活の苦しさがら匍い出んとして、瞬間的な享楽を求める。街にはシネマがある。赤い燈、青い燈、のカフエがある。街中の店という店ではラジオが呼んでいる。かくて、今や世界は未曾有の速力と混乱が到来した。この間題の一切は、やがて直接的な社会運動が解決してくれるであろう。
(大衆文芸作法)
筆名の由来について自身の小伝がある。〈植村の植を二分して直木、この時、三十一歳なりし故、直木三十一と称す。〉以後、三十二、三十三と続き三十四をとばして三十五で止めた。
『南国太平記』などで時代小説を知識階級に読まれる内容にまで高め〈大衆文学の歴史を変える貢献〉をしたが、優れた剣豪の悲壮な斬死にも似たる直木三十五の死!〉と東京朝日新聞に書かれた彼の死は、昭和9年2月24日、脊椎カリエス治療のため入院していた東京帝国大学医学部附属医院(現・東京大学医学部附属病院)で迎えた。病名は結核性脳膜炎であった。
横光利一は〈氏は苦しみを現わさず、諧謔の裏に生活と人道とを現した。〉と記し、死の翌年、菊池寛は友情の証として、大衆文芸の新進作家に贈る「直木賞」を設定した。
景勝地金沢八景に至る小丘の裾元、通称芋観音と呼ばれる富岡・長昌寺の観音堂脇にある自然石の墓碑には「故直木三十五之墓」と刻まれている。
昭和8年暮れ、富岡海岸に近い神奈川県久良岐郡金沢町富岡(現・横浜市金沢区富岡東)の慶珊寺裏山に家を建てたが、完成からわずか2か月後に結核性脳膜炎で死去。その墓は最初、慶珊寺にあったが、本人の遺志によって、「禅宗の海の見える墓地」ということで長昌寺裏山の崖上に移された。しかし崖崩れの恐れがあるため昭和57年8月、今の場所に改葬したのであった。その一角に吹き溜まった熱い海風が木漏れ日と混ざり合って、休息をとったばかりの私の肌にどっと汗を滲ませてきた。
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