なかにし礼 なかにし・れい(1938―2020)


 

本名=中西禮三(なかにし・れいぞう)
昭和13年9月2日―令和2年12月23日 
享年82歳(無礼庵遊遊白雲居士)
神奈川県鎌倉市二階堂710 瑞泉寺(臨済宗) 



小説家・作詞家。満州国牡丹江省生。立教大学卒。シャンソンの訳詩を手掛けた後、洗練された大人の感覚で多くのヒット曲を生み出した。その後、小説を執筆。『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞。『兄弟』など自伝的な作品が話題となる。ほかに『赤い月』『てるてる坊主の照子さん』などがある。




 


 この喜びば愛八姐さんと分かちあいたくて、私はおくんちの帰り道、まっすぐ愛八姐さんのお墓の前に来たとです。梅園の身代り天神様のすぐ上にある、この上小島の丘の上に。
愛誉八池貞水大姉と戒名の書かれた灰色の墓石の下に、愛八姐さんは眠っているとです。「うちが死んだら丸山に墓ば建ててくださいね」と言うた愛八姐さんの願いば 叶えてあげんばならんと、古賀先生と私が探したあげく、ここならば景色もよかですし、きっと愛八姐さんも喜んでくれるにちがいなかと思って決めた場所ですたい。
近くは風頭、遠くは立山、そして稲佐山まで見渡せて、その間に坂の多か長崎の町がうねっておりますたい。真ん中ば流るっとは中島川、港までは見えまっせんばってん、なんベん見ても見飽きん美しか眺めです。
 愛八姐さんは、この町ばあっちこっちと歩きまわって、古か長崎の歌ば集めまわっておんないましたですよ。この町ば下駄ば鳴らして闊歩しておられとったですよ。こうして長崎の町ば見下ろしておりますと、愛八姐さんの下駄の音が聞こゆっとごたる気分になっとですたい。


(長崎ぶらぶら節)


 

 昭和21年、8歳になったばかりの時に満州国から「日本という祖国へ和僑として」流れ着いたなかにし礼。学資を稼ぐために始めた作詞活動、きらめきを深く沈ませたまま喝采を浴びる日々にも疎ましさが次第に宿ってくる。昭和45年に兄の会社が倒産して、借金を肩代わりするなど地獄も味わったが、平成12年、『長崎ぶらぶら節』の直木賞受賞以来、小説家として順調に名を馳せてきた。しかし、平成24年、食道がんが発見されてからは、自分で調べだした陽子線治療によって一旦寛解も、27年再発するなど、終始「がん」との闘いであった。令和2年の秋より持病の心臓病悪化により療養していたが、12月23日午前4時23分、心筋梗塞により東京都内の病院で死去した。


 

 40歳を過ぎたころ北鎌倉に居を構えた時に知り合った久米正雄の子息の紹介でもとめたこの簡素で美しいたたずまいの瑞泉寺墓地の奥深く、古びた階段をなお高く踏み上った先にある塋域、昭和59年中西禮三建之五輪塔と63年建之「南無釋迦牟尼仏」と刻された墓石二基、踏石が枯れ落葉に覆われた区画の奥隅に静かに建っている。「この世の礼を無視して自分の価値観が決めるがままに生きてきた。そして絶え間なく遊ぶがごとくに生きてきたから遊遊である。白雲とはなにか。それは私が愛してやまないボードレールの詩『異邦人』からきている」と記した戒名「無礼庵遊遊白雲居士」が墓誌に刻されている。生活を脅かされ、翻弄され続けた兄の死の連絡を受けて「万歳」と叫んだという彼がやっと安らぐ聖域だ。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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