本名=中原中也(なかはら・ちゅうや)
明治40年4月29日—昭和12年10月22日
享年30歳(放光院賢空文心居士)
山口県山口市吉敷 上東墓地
詩人。山口県生。東京外国語学校(現・東京外国語大学)卒。京都立命館中学校時代に高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』に出会い詩作を始め、富永太郎・小林秀雄を知る。大正14年長谷川泰子と上京し、昭和9年第一詩集『山羊の歌』を、死の翌年、未完詩集『在りし日の歌』刊行。『ランボオ詩集』などがある。
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長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。
われは料亭にありぬ。
酒汲みてありぬ。
われのほかに別に、
客とてもなかりけり。
水は恰も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。
やがても密柑の如き夕陽、
欄干にこぼれたり。
あゝ!——そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。
(冬の長門峡)
昭和12年10月22日真夜中、鎌倉小町の養生院で脳膜炎の中也は死んだ。同年『文学界』12月号の「中原中也追悼号」に〈ボクは卓子(テーブル)の上に〉から始まる「無題」として収録された詩がある。〈とある朝、僕は死んでゐた。 卓子〈テーブル〉に載つかつてゐたわづかの品は、 やがて女中によつて瞬く間に片附けられた。 ——さつぱりとした。さつぱりとした。〉。
また、格別の友人小林秀雄は追悼する。〈先日、中原中也が死んだ。夭折したが彼は一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもからいろいろな事を言われ乍ら、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。事変の騒ぎの中で、世間からも文壇からも顧みられず、何処かで鼠でも死ぬ様に死んだ〉。
国道から少しばかり外れた竹藪の前に、小島のようなひなびた墓地があった。竹藪の下には「一つのメルヘン」や「蝉」の題材となった吉敷川が〈さらさらと、さらさらと〉流れている。区画されたまわりの参道は雑草がはびこり、青苔のへばりついた自然石に中也が中学二年の時に書いた文字が刻してある「中原家累代之墓」。草いきれの塋域を故郷の風がさやかに流れていく。
〈ホラホラ、これが僕の骨—— 見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。 霊魂はあとに残つて、 また骨の処にやつて来て、 見てゐるのかしら? 故郷の小川のへりに、 半ばは枯れた草に立つて 見てゐるのは、——僕? 恰度立札ほどの高さに、 骨はしらじらととんがつてゐる〉。
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