本名=中谷孝雄(なかたに・たかお)
明治34年10月1日—平成7年9月7日
享年93歳
滋賀県大津市馬場2丁目12-62 竜ヶ岡俳人墓地
小説家。三重県生。東京帝国大学中退。大正14年旧制三高時代の友人梶井基次郎らと同人雑誌『青空』を創刊。のち佐藤春夫門下となる。昭和9年ある時代の青春の微妙な心情を描いた『春の絵巻』で注目される。翌年保田與重郎らと『日本浪曼派』創刊。44年『招魂の賦』で芸術選奨。ほかに『業平系図』『梶井基次郎』『故郷』などがある。
人生の出会と別離、それは『浪曼派』の好んで題目とした一つであつたが、亀井よ、それはなんと不思議でまたはかないものであつただらうか。
亀井の死を見送つた頃から、私は淀野のところへもさつぱり足が遠のいてしまつた。思ふに淀野の死もさう遠いことではなく、そんな彼と亀井の死に就いて語るのがいやだつたからである。しかし時どき彼の家へ電話をして、その後の彼の容態に就いて訊ねることだけは忘れなかつたが、彼はその後も少しもよくはならないが、悪くもならないとのことであつた。そしてそのやうな状態が半年余りも続いたが、私はたうとうその間に一度も淀野を見舞はないでしまつた。一度足が遠のくと、それが惰性のやうになつてしまつたやうだ。
ところが最近になり、淀野は大そう食欲が旺盛になつて、朝からメニューを見て今日は何を食べようかと、食べることを毎日の楽しみにしてゐるといふ知らせがあつた。私はそれに安心したわけではないが、この分なら急にどうといふこともあるまいと思ひ、かねて一度は行つて見たいと思つてゐた熊野地方への旅行を思ひ立つたのであるが、今となつてはそれも無期延期になりさうであつた。
(招魂の賦)
残された文学作品や文名に見る限り陰陽の関係であったかも知れないが、中谷孝雄と梶井基次郎は京都の三高以来、切っても切れない盟友であった。大正13年、ともに三高から東京帝国大学へ進学した梶井基次郎、外村繁らと大正14年1月に創刊し、のちに三好達治や淀野隆三も加わって昭和2年6月、通巻28号をもって廃刊された同人誌『青空』(梶井基次郎の『檸檬』もこの雑誌に発表した作品)は彼らにとっての大いなる無名碑だったが、やがて梶井は31歳で夭折、三好や外村、淀野も遙か昔の昭和三、四十年代に逝ってしまった。中谷は『梶井基次郎』や『招魂の賦』によってその密なる交流を描いて私小説作家として名をなしたが、平成7年9月7日、92歳の長寿を全うした。
同人誌『日本浪曼派』を亀井勝一郎や中谷孝雄とともに立ちあげた保田與重郎や松尾芭蕉の墓がある大津・義仲寺の無名庵。この寺の再興に尽力した保田與重郎の縁から庵主となった中谷の分骨墓がある竜ヶ岡俳人墓地はもともと義仲寺の寺領だった場所で、かつては琵琶湖の畔であったのだが、周辺は埋め立てられて宅地化、今はすぐ前を国道一号線が通り、ひっきりなし走行する車の騒音が響いてくる。中谷から無名庵の庵主を継いだ伊藤桂一の墓に並んで、覆い被さった生垣の夾竹桃の茂みから顔を覗かせている青みを帯びた自然石の小さな「孝雄」墓。背面に中谷孝雄の没年月日と享年が刻まれている。一つ挟んだ左隣には保田と義仲寺再興に奔走した工藤芝蘭子の墓も見える。
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