本名=中 勘助(なか・かんすけ)
明治18年5月22日—昭和40年5月3日
享年79歳(慈恩院明恵勘真居士)
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種イ7号15側5番
小説家・詩人。東京府生。東京帝国大学卒。大正2年夏目漱石の推薦で長篇小説『銀の匙』が東京朝日新聞に連載され好評を得た。10年小説『提婆達多』を刊行。漱石門下との交流の他は文壇と距離を置き、孤高の姿勢を通した。『犬』『菩提樹の陰』の他詩集、随筆集、童話などがある。
2015.10 きれいに整地されていた。
ある晩かなりふけてから私は後の山から月のあがるのを見ながら花壇のなかに立っていた。幾千の虫たちは小さな鈴をふり、潮風は畑をこえて海の香と浪の音をはこぶ。離れの円窓にはまだ火影がさして、そのまえの蓮瓶にはすぎた夕だちの涼しさを玉にしてる幾枚の棄とほの白くつぼんだ花がみえる。私はあらゆる思いのうちでもっとも深い名のない思いに沈んでひと夜ひと夜に不具になってゆく月を我を忘れて眺めていた。……そんなにしてるうちにふと気がついたらいつのまにかおなじ花壇のなかに姉様が立っていた。月も花もなくなってしまった。絵のように影をうつした池の面にさっと水鳥がおりるときにすべての影はいちどに消えてさりげなく浮かんだ白い姿ばかりになるように。私はあたふたとして
「月が……」
といいかけたがあいにくそのとき姉様は気をきかせてむこうへ行きかけてたのではっとして耳まで赤くなった。そんな些細なこと、ちょっとした言葉のまちがいやばつのわるさなどのためにひどく恥かしい思いをするたちであった。姉様はそのまましずかに足をはこび花のまわりを小さくまわってもとのところへもどりながら
「ほんとうにようございますこと」
と巧みにつくろってくれたのを私は心から嬉しくもありがたくも思った。
(銀の匙)
中勘助の日記体随筆を読むことは、私にとって非常な苦痛を伴うものであった。
彼の生涯は『銀の匙』とそれぞれの随筆によって彼自身の愛の偽善を、自己肯定として飾っていくのである。この作家にとって他者は、自分を写す鏡の限られた面の中にしか存在しない都合のよい対象であったのだろうか。ある意味、私小説作家の一方の表現方法といえるのでもあるのだが。
勘助の結婚は57歳の時であったが、脳溢血の後遺症によって数十年にわたって、彼を悩まし続けた兄金一の自死の日でもあった。錘をとかれた以後の淡々とした生き方の後、昭和40年5月3日の嵐の夜、日本医科大学付属病院にて脳出血のため死去した。
小説家というよりも詩人でありたいと意識した作家の墓が目の前にあった。
幾度かのプラトニックな愛を経た、ナルシストの作家、文壇的には「孤高の作家」とよばれた人の墓である。
師夏目漱石に絶賛された『銀の匙』は、平成15年に岩波書店が創業90年を記念して行った「読者が選ぶ〈私の好きな岩波文庫100〉」キャンペーンにおいて、夏目漱石の『こころ』、『坊っちゃん』に次いで、第3位に選ばれたそうだが、塋域にある「中家之墓」と刻された、碑文字も判然としないほど黒ずんだ墓石に、私はある種の妄執の様なものさえ感じてしまうのであった。樹葉が覆い被さり、並んだ2基の墓の間には木の根っこが異様に這い出していた。
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