中城ふみ子 なかじょう・ふみこ(1922—1954)


 

本名=野江富美子(のえ。ふみこ)
大正11年11月15日(戸籍上は11月25日)—昭和29年8月3日 
享年31歳 
北海道帯広市東三条南5–5 本願寺帯広別院(浄土真宗)



歌人。北海道生。東京家政学院卒。昭和17年20歳で結婚するが、その生活は幸福ではなく9年後に離婚。29年乳がん(両乳房切除)で入院中、『短歌研究』50首詠応募作品が編集者中井英夫の目を惹き特選となる。同年病没直後に処女歌集『乳房喪失』、翌年に『花の原型』が刊行された。




  



出奔せし夫が住むといふ四國目とづれば不思議に美しき島よ

父なき子の重みに膝がしびれゐるこの不幸せめて誰も侵すな 

灼きすくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ

衆視のなかはばかりもなく嗚咽(をえつ)して君の妻が不幸を見せびらかせり

音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか

子が忘れゆきしピストル夜ふかきテーブルの上に母を狙へり 

死に近きわれに不變の愛誓ふ鎭魂歌ははやくもひびけり

冬に入る空限りなく深ければ今は靜に君を死なしめよ

息きれて苦しむこの夜もふるさとに亜麻の花むらさきに充ちてゐるべし

乾きゆく足裏やさし一匹の蟻すらかつて踏まざる如く

 


 

 摘出手術をした乳がんの再発に恐れながらも〈恋に死ぬ意気地〉を旨と放埒に歌い、生きてきた。
 昭和29年、『短歌研究』4月号、新人50首詠の特選となった『乳房喪失』は歌壇内外に大いなる波乱を巻き起こしたが、ふみ子の病は悪化し、病室に横たわる身となっていた。
 ふみ子は数々の不毛な往還を視てきた。刻々と死は近づいている。ふみ子を見いだし、『乳房喪失』を世に問うた中井英夫も、20日もの間滞在看病し、後に映画化された『乳房よ永遠なれ』を発表した若き記者若月彰も、ふみ子の死出の旅路のために〈演出し、創作した作中人物〉のようであった。札幌医科大学附属病院で昭和29年8月3日午前10時50分、母に看取られながら中城ふみ子は逝った。



 

 釧路本線から乗り継いで降り立った帯広の町は、中城ふみ子が死んだ日のように風もない蒸し暑い日だった。
 墓所の所在に当てもなく、年譜だけを頼りに葬儀の行われたという本願寺帯広別院に足を向ける。受付でおそるおそる来寺の旨を伝えるとはからずも正鵠を射ていた。薄暗がりの廟内、漆塗りの仏壇が幾重にも並んでいる。「帯広市 野江家」と銘板の差された仏壇に灯明をともし、手を合わせる冷厳とした時と間。還りこぬ道は遠い。
 生後百日目、ふみ子の写真の裏に〈大正11年11月15日出生、富美子 実物ハ之ヨリウントメンコクアリマス エヘン〉と、書き付けた父も、〈苦しみに息も絶えだえ手をふりてビタカンフルとよびつつ逝きぬ〉と、ふみ子の最期を歌った母もここに眠っている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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