本名=長与善郎(ながよ・よしろう)
明治21年8月6日—昭和36年10月29日
享年73歳
東京都港区南青山2丁目32–2 青山霊園1種イ13号1〜3側
小説家・劇作家。東京府生。東京帝国大学卒。雑誌『白樺』に参加、戯曲『項羽と劉邦』を発表。小説『青銅の基督』『竹沢先生と云ふ人』が代表作。『白樺』廃刊後は、そのあとを継ぐ『不二』を主宰。自伝『わが心の遍歴』で読売文学賞を受賞。『戸隠』『その夜』『切支丹屋敷』などがある。
「神はそれ自身に於て完全なる者なのであらう。だが、それ自身に於て完全だと云ふ事は、微弱なる被造物の側から見た関係に於て、その恵に於て一々完全だと云ふ意味ではない。神としてはいつでも完全なはたらきをしてゐると云ふ意味である。」
「神は死を知らない。何となれば神は生命の中にのみ生きるものであるから。神が死を知り能はぬ事は、恰も太陽が闇を知り得ぬのと同じである。だから神から見れば唯変形であり、宿替へであるにすぎない個體の『死』に對しては神は無頓着で、個體がその変形に對して抱く恐怖の實感に對しては神はその性質上どうも同情が持てず呑気であるらしい。
従って又、個體ももし内的にその神の生命に同化し、その性質を體得して了へば、『死』に超越する事が出来るであらう。」
(竹沢先生と云ふ人)
長与家は、漢方医として代々肥前大村藩に仕えた家系であった。医学者専斎の五男。長兄称吉は医師で男爵。三兄又郎は病理学者で東京帝国大学総長、男爵。四兄岩永裕吉は同盟通信社の初代社長。謹厳なる長与一族の末子として生まれた善郎は、武者小路実篤の勧めで『白樺』同人となり、西欧的個人主義と東洋的自然主義とを渾然と調和した世界観を展開していった。
〈自分にとって道徳観は直ちに世界観であり、人生観であり、又宗教である〉——。
この様な長与文学は広い読者を持つことは出来なかったが、「文に生きる人」として昭和36年10月29日、東京・目白の自邸で心臓衰弱により死亡するまで、高踏的な思想文学をもって生涯を貫いた。
南青山のこの霊園には、大久保利通、吉田茂、池田勇人などの政治家から芸術家、実業家、軍人、尾崎紅葉、志賀直哉、斎藤茂吉、埴谷雄高などの文学者まで多士多彩な人材が時を移して鎮魂されてあるのだが、ブランド墓地とも密かに呼ばれる霊園の昼下がり、晩秋のぼんやりとした日だまりの細道を入っていくと石柱門のなお奥に静かにたたずむ墓標があった。「長輿善郎墓」、それは入り口右手にある父長与専斎のあまりにも威厳にみちた墓とは対照的に鍵の手型の敷地の奥隅で硬質な作風そのままに毅然とした風格の一個体として建っていた。
——〈自然を冷静に認識し、自然の意志を尊重せよ。自然は人間の外にあるばかりでなく、人間の内部にもまた自然はある〉。
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