本名=長田幹彦(ながた・みきひこ)
明治20年3月1日—昭和39年5月6日
享年77歳
東京都台東区上野桜木1丁目14–53 寛永寺(天台宗)第三霊園
小説家。東京府生。早稲田大学卒。兄長田秀雄の影響で『明星』『スバル』に参加。明治44年小説『澪』を発表して注目された。次いで『零落』を発表、耽美派作家として知られる。大正2年短編集『祇園』を刊行。『祇園夜話』など祇園もので評判を得た。
ひつそりとした楽屋には『時』の滴る音さへはつきり聞き分けられるやうな静けさがたち帰つて来て、時々田之助が思ひ入つたやうに吐く嘆息が疼くほど明かに響き渡るばかりであつた。硝子窓から戸外をみると家々の屋根にはもう真白に霜が置いて、その家並の彼方に荒蓼とした石狩川の流れがひろびろと湾曲しながら遠白く眺められた。灯影さへ見えぬ原野の面は無限の寂蓼に掩はれ、その果てに聳えた国境の連山には雪が幻の如くに明るく輝いて、見渡すかぎり天にも地にも、蒼ざめた月光が音もなく降り灑いでゐた。私はその廓落とした大自然に面を合せてゐるうちに、いつかしら、冷たい真実の底からひそひそと湧き上つてくる声なき慟哭が胸一杯に充ち溢れて、今、遠く都会から離れたこの石狩河畔の寂しい廃市で、『笹目の兵太』や『土器売りの詫助』に扮しながら衰残の芸を売つてゐるこの憐れな俳優の末路に芸術的感激の極致を見出さない訳にはいかなかつたのである。
(零落)
学業半ばにして、北海道に渡り、鉄道工夫や炭坑夫などをやりながら旅芸人の一座に入ったこともあった。道内を放浪した無頼さと新浪漫主義の旗手としての華麗さ、祇園ものといわれた情話にみられる日陰者に対する感傷が混沌と存在する長田幹彦の後には長編300、短編600、歌謡曲の作詞350など、あきれるほどたくさんの作品が残った。
小説はともかくとしても、長田幹彦といえば祇園、祇園といえば長田幹彦といわれる位に『祇園夜話』、『祇園情話』などの「祇園もの」や「情話文学」で一時期の頂点を得たが、円山公園に『祇園小唄』の石碑が建てられた3年後の昭和39年5月6日、急性肺炎のため死去した。
間もなく訪れてくる桜満開の季節、上野台地は大いに賑わいを見せてくる。東叡山寛永寺根本中堂裏にある墓地はさえぎるものもなく、ひたすらに明るかった。
天璋院篤姫や徳川将軍吉宗、綱吉などの眠る廟所も間近、今東光和尚の墓も幾筋か奥に見えている。
——〈月はおぼろに東山 かすむ夜ごとのかがり火に 夢もいざよう紅桜 しのぶ思いを振袖に 祇園恋しや だらりの帯よ〉。京都円山公園と同じように『祇園小唄』の歌碑が置かれた枯れ草の揺れる塋域にも季節は緩やかに和んでいる。
「長田幹彦」と大書された石碑に墓のイメージはなく、隣地にある小唄春日流創始者「春日トヨ」の墓から何かしら心地よい一節が流れ出てくるようでもあった。
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