本名=曾我綾子(そが・あやこ)
明治31年2月27日—昭和44年8月24日
享年71歳
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 冨士霊園1区5号208号
歌人。長崎県生。東洋高等女学校卒。与謝野晶子に師事。大正10年に第一歌集『真珠貝』を刊行。新詩社系女流作家として第二期『明星』で活躍する。のちに吉井勇の『相聞』(のちのスバル)に参加、昭和6年『いづかし』を創刊。戦後『スバル』を復刊主宰した。ほかに歌集『深淵』『みおつくし』『刈株』、詩集『灰の詩』などがある。
わが胸のドン・キホオテが馬に乗り練り歩きたるかの頃のこと
基督の温かき手かと思へるはヅアラツストラの青き微笑か
男の子こそめでたかりけれ十字架の耶蘇も羅馬を焼きにしネロも
かにかくに苦しき命同じくば恋の焔に身を滅ぼさん
恐ろしくはたなつかしき深淵を三尺離れものを思へり
刻々に引きずられ行く死の扉タンタヂイルのごとく哭けども
そのごとき人間の世の苦しみを女は知らぬものと思ふや
あぢきなき文はふたたび見ざるべし思へる者は火を超えて來よ
与謝野晶子につづく鬼才とうたわれた閨秀歌人中原綾子。20歳の時に16歳もの年齢差がある夫との強いられた意に添わぬ結婚生活も16年、性格と趣味の不一致は如何ともしがたく夫と一子を捨てて、実業家小野俊一と逃避行の末に結ばれたのだが、のちに結核で死去した彼の一周忌に捧げた詩集『灰の詩』に寄せた堀口大學序詩のように〈打合った切り火のその猛しさ〉をもった綾子は家庭におさまるタイプの女性ではなく〈彼女は すこし/ずるかった/聞きよく云へば/聡明で/彼は/いささか/馬鹿だった/上手に云へば/天真で〉と自嘲した不幸な火宅から逃れることはできず、10年を経ずして破局。その後も旺盛な作歌活動を続けていたのだが、昭和44年2月ごろから時々起こり始めた喘息症状が悪化、8月24日午前5時47分、肺気腫のため神奈川県大船の鎌倉中央病院で死去する。
どこまでも均等に区画割りされ、田の字型に連なっている火山灰土と細かく砕かれた火山礫を混合したような薄墨色の土庭、塋域に植栽されたベゴニアの花がよりいっそう鮮やかに映えている。残り少ない夏の午後の陽を浴びた白御影石の「中原綾子之墓」、碑裏には「歌人 1898—1969」とのみ刻されている。体の不調が続き、死を意識するようになった頃、昭和43年七夕前夜の〈けん牛は老いぬ織女も病みたるとみだりに言ふなかささぎの鳥〉から書き始め、昭和44年夏にかけて渋団扇の両面に書きとめた表面29句、裏面16句の病床詠の裏面最後に書きとめられた〈購ひていまだ見もせぬ駿河なる富士の墓所も生きて行きて見ん〉の一句、愛に生き芸術に生きた綾子の無念さをみる思いがする。
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