永瀬清子 ながせ・きよこ(1906—1995)


 

本名=永瀬 清(ながせ・きよ)
明治39年2月17日—平成7年2月17日 
享年89歳(真如院妙文日清大姉)❖紅梅忌 
岡山県赤磐市熊山町松木 生家墓地 



詩人。岡山県生。愛知県立第一高等女学校(現・明和高等学校)卒。佐藤惣之助に師事。昭和5年詩集『グレンデルの母親』を発表。20年郷里の岡山県に帰住。農業をしながら詩をつくる。27年詩誌『黄薔薇』を創刊。『あけがたにくる人よ』で地球賞、現代詩女流賞を受賞。『諸国の天女』『美しい国』『焔について』などがある。




  


あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の所へしずかにしずかにくる人よ
一生の山坂は蒼くたとえようもなくきびしく
私はいま老いてしまって
ほかの年よりと同じに
若かった日のことを千万遍恋うている

その時私は家出しようとして
小さなバスケット一つをさげて
足は宙にふるえていた
どこへいくとも自分でわからず
恋している自分の心だけがたよりで
若さ、それは苦しさだった

その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった
どんなに待っているか
道べりの柳の木に云えばよかったのか
吹く風の小さな渦に頼めばよかったのか

あなたの耳はあまりに遠く
茜色の向うで汽車が汽笛をあげるように
通りすぎていってしまった

もう過ぎてしまった
いま来てもつぐなえぬ
一生は過ぎてしまったのに
あけがたにくる人よ
ててっぽっぽうの声のする方から
私の方へしずかにしずかにくる人よ
足音もなくて何しにくる人よ
涙流させにだけくる人よ

(あけがたにくる人よ)

 


 

 平成7年2月17日朝、脳梗塞で岡山済生会病院に入院中の永瀬清子は死んだ。宮沢賢治の詩に大きな影響をうけ、農業体験を通して少しでも近づくことを願った清子は、終生、その想いが消えることなく、〈私がいなければ何もない この美しいタぐれも 樹々の網目のシルエット そのゆるやかな描線の 音楽的なけむらいも〉と詠った。そしてまた〈私の消える日皆消える だのに甲斐なく詩をかいて だのに甲斐なく詩をかいて〉と嘆いた。
 里山の麓でなれない農業に従事しながら詩作に励み、厳しい一生を背負って老いてしまった詩人は死んだ。吉本隆明が称した〈最長不倒の女性詩人〉は89年前に生まれた同月同日に生涯のすべてのものを抱いてしずかに消えた。



 

 〈あたらしい熊山橋は 茫と白く宙にうかんでいる〉と清子が詠んだ吉井川にかかる長い橋を渡りはじめると、春霞の風景におさまった生地・松木の集落が遠くに見えてくる。長い戦争が終わってまもなく、清子は生家のある岡山県の豊田村(現・赤磐市熊山町松木)で帰農することとなるのだが、今はその生家も朽ち、修復の中途にあった。
 修復中家屋の傍らを縫って村道を歩み辿った松山の陰りの中に「永瀬家之墓」はあった。墓誌には夫と長女の間に挟まれて清子の戒名が刻まれている。山ツツジがそこここに咲き、雑木林の梢越に新田山も見える。ウグイスがさえずり、新緑はやさしい。時の流れはゆるやかで屈託もなく、清子の死とともに消え去ったこの世のすべてが私の目の前にいま、蘇ってくるようだ。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

    


    内藤湖南

    内藤鳴雪

    直木三十五

    永井荷風

    永井龍男

    中井英夫

    中江兆民

    中上健次

    中川一政

    中河与一

    中 勘助

    中里介山

    中里恒子

    中沢 清

    長澤延子

    中島 敦

    中島歌子

    中島らも

    中城ふみ子

    永瀬清子

    永田耕衣

    中谷孝雄

    長田秀雄

    長田幹彦

    長塚 節

    中西悟堂

    中野孝次

    中野重治

    中野鈴子

    中野好夫

    中原綾子

    中原中也

    中村草田男

    中村憲吉

    中村真一郎

    中村苑子

    中村汀女

    中村光夫

    中山義秀

    長与善郎

    半井桃水

    夏目漱石

    南部修太郎