中沢 清 なかざわ・きよし(1932—1954)


 

本名=中沢 清(なかざわ・きよし)
昭和7年1月4日—昭和29年6月4日 
享年22歳(清岳明哲居士)
群馬県前橋市龍蔵寺町68 龍蔵寺(天台宗) 




詩人。群馬県生。群馬大学二部卒。14歳の頃から文学や絵画に志向し、16歳の時に文芸雑誌『文学集団』に応募した「骸骨」が村野四郎に激賞される。昭和25年群馬大学学芸学部(二部)に入学し、美術を専攻。翌年詩誌『青猫』に参加し、絵と詩の創作に励むも健康を害して病死する。遺稿集に『みしらぬ友』がある。



 



ぼくらは世界を変えなければ
ならない ぼくらは
その激しい移り変りの時代に
生れた
世界がその古びた衣裳を全く
捨てねばならぬ時に
だからといって 友らよ
ぼくらに北十字を殺すことが
出来ると思ってはならない
ぼくらは ぼうぼうの夜の野
原に あかりをともす者だ
そのまばゆい燈火の中にぼく
らは生きている
けれど 燈火はそのささやか
な周囲をしか照らさず
世界はその光の環を超えて
ぼうぼうとひろがっているの
だ
燈火の中での出来ごとは
騒がしい誤った移り変わりだ
たしかに ぼくらの貧しい輝や
きは北極星におとりはしない
けれど北極星に優ることもない
しばしば あかりは闇夜の星た
ちとぼくらをさえぎる
友らよ ぼくらをまどわしてい
るそのあかりを消すがよい

ごらん
たくさんの友らと手を結びつつ
それらの友から遠く離れて
ぼくらの地球が周りつづけてい
る
それどころか 世界も 又
すべての者らと共に 限りない
旅をつづけている
静かな歩みのうちに


(宇宙への通信)


 

 桐生在住の画家オノサト・トシノブの指導を受けるなど、絵画と詩作に目覚め〈宇宙の秩序に触れようとする欲求〉たる詩心を一心に求めていくのだが、群馬大学に入学してからはより一層それらに全力を傾けるようになった。〈キリスト像を思わせる特異な風貌と、本包みを小脇に、どこかおずおずとした歩きぶり〉で〈飄々としたたたずまいはどことなくユーモラスであったが、黒ぶち眼鏡の底にあって天の一角をみつめる眼は清らかであった〉と哲学研究会の指導助教授山田桂三氏は表現されたが、幼少の頃から虚弱で弱視の体質だった清は、昭和28年12月、大学校庭で休憩中に失神し、群馬大学附属病院に入院。29年、大学卒業三ヶ月後の6月4日午後11時50分、心臓麻痺によって22年の短い命を終えた。



 

 死を予感した清が友人に託した遺書により、尾瀬長蔵小屋主人平野長英の厚意の下、福島県の尾瀬湖畔、大江湿原丘陵の同家墓地の一隅に埋骨されたが、昭和51年6月に前橋市のこの寺に改葬された。本堂裏の霊園奥、前橋区検察庁の副検事であった父重雄の大きな顕彰年譜碑が建つ墓所に「中澤家之墓」はある。右に小さな地蔵像、左の過去碑に清の戒名、没年月日が刻まれ、かつて尾瀬の墓石に碑銘として刻まれた「宇宙への通信」の一節〈ぼくらは ぼうぼうの夜の野原に あかりをともす者だ そのまばゆい燈火の中に ぼくらは生きている〉が詩碑として新しく建てられている。みしらぬ友にと彼は告げる〈君のうちの夜空の 最後の星が消える その時 君は眼をひらくがよい やがて ほんとうにはじめてのあさあけの滴が 君の瞼にしたたるだろうから〉



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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