本名=永井龍男(ながい・たつお)
明治37年5月20日—平成2年10月12日
享年86歳(東門居士)
東京都港区三田4丁目16–23 済海寺(浄土宗)
小説家。東京府生。一ツ橋高等小学校卒。菊池寛に認められ、『文芸春秋』の編集者を続ける傍ら、創作の発表もつづけた。戦後は『文芸春秋』を辞し、文筆活動に専念、直木賞、芥川賞の選考委員も務めた。『青梅雨』をはじめ短編小説の名手として知られる。『秋』『一個 その他』『コチョバンバ行き』などがある。
「春枝という子も、考えてみると、つくづく一人ぽっちな子なんですね」
ひでが、卓を見詰めるようにして云った。
弱い夜風が、かすかにガラス戸をゆすって去った。
「一口呑んでおくれ」
と、千三が二合瓶を取った。
足の不自由な春枝にしては、珍しいことだった。三人が気づかぬ間に、そこにいた。
湯上がりのせいか、やや蒼白んだ顔色だった。少しむくみもあるかも知れない。これも、洗いたての浴衣を着ていた。
四人とも、口をきかずに卓を囲んだ形になった。
「春枝、一口呑んでくれ」
千三が、手を伸べた。春枝は両手で猪口をうけた。猪口が震えていた。
「おじいちゃん」
息を詰めて、春枝が云った。
「ちいおばあちゃんも、大きいおばあちゃんも……」
「うん、どうした」
「二人とも、けさから、死ぬなんてこと、一口も口に出さないんです、あたし、あたし、えらいと思って」
それきりで、泣き声を抑えに抑え、卓に泣き伏した。
この姿と気勢は、今夜のこの家にとって、一番ふさわしくないものであった。
(青梅雨)
「鎌倉文士」という言葉がある。あるいはあったといった方が正しいかもしれないが、そこには川端康成がいた。久米正雄、小林秀雄、林房雄、里見弴や大佛次郎、今日出海もいた。そして昭和59年の今日出海を最後に、皆ちりぢりに逝ってしまった。
〈草が、草であることを知らぬように、まったくそれと同じように〉生きてきた永井龍男。「鎌倉文士」のただ一人の守り人でもあるかのように『鎌倉文学館』の初代館長も務めた。
〈家に籠って、朝日と共に雨戸を開き、夕方には早目に戸締りをして、なるべく静かに起床したい。〉と願った晩年であったが、平成2年10月12日、心筋梗塞で意識を失ったままの作家のまぶたに、最後の朝日は温もりを残して去った。
久しく空白の時があったが、鎌倉文士・永井龍男の墓碑にようやくのこと辿り着いた。
何年か前に、芝・愛宕下の和合院という小庵墓地にあると聞いて勇躍訪ねたのだが、時あたかもバブル崩壊の真っ直中、不動産関係の失敗とかで、寺の周囲には工事パネルが張り巡らされ、見るも無惨な状態にあった。当然、墓地に入ることもままならず、墓そのものが在るや無しやも定かではなかった。以来、杳として行方知らずであった「永井家先祖代々之墓」。
粉雪が降りはじめ、微香をふくんだ風も舞っている。三田の高台にある最初のフランス公使宿館となった済海寺、和合院から移設された墓の一群から離れ、見過ごしてしまうような塀際の蔭景としてある墓には、雪ぼんぼりのようなほのかな花あかりが供えてあった。
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