本名=中村真一郎(なかむら・しんいちろう)
大正7年3月5日–平成9年12月25日
享年七九歳
静岡県周智郡森町森2318 随松寺(曹洞宗)
小説家・評論家。東京府生。東京帝国大学卒。昭和17年福永武彦、加藤周一らと新しい文学同人『マチネ・ポエティク』をつくる。21年『死の影の下に』で戦後の文学を歩み始める。『四季』四部作、『頼山陽とその時代』、読売文学賞を受賞した『蠣崎波響の生涯』など多数の著書と訳詩書がある。
私は突然に足を停めた。一体、何だろう? 私は心の底の不安のやうなもを捉へやうと軽く首を傾けた。先程から歩きながらの間に次第に認識の裏側で拡がり始めてゐた曇り空のやうなものが、強い衝動となって心臓に動悸を呼ばうとする瞬間に、私は私自身のとりとめもない夢想から眼覚めた。そしてその同じ瞬間に私の不安そのものも捉へ難く何処かへ退いて了つた。丁度長い間掛けられてあった絵が取り去られた後の、そこだけが変に不自然に四角く白く浮き出た壁のやうに、また突然に退学した学生の席が、眼ざわりな程生なまとその不在の雰囲気を漂はせてゐるやうに、私の心は先程までの何かが急に消え去った後に、名状し難い深い匂ひのやうな気配を拡げ始めてゐた。
(死の影の下に)
母を結核で亡くしたのは3歳。以後は10歳で父に引き取られるまで、遠州森町の母の実家に預けられて育った。父が再婚した継母も13歳の時に同じ結核で死に、翌年には父も死に、伯母に引き取られた幼少期の真一郎の育歴は過酷そのものであった。多くの死を見てきた。たくさんの葬式に立ち会い、非常にエゴイスティックになったという。更に39歳のとき、妻の自殺によって強い衝撃を受け、ひどい神経症に陥り入院したこともあった。晩年は糖尿病の悪化により入退院を繰り返していた。
平成9年12月25日、親友加藤周一夫妻との昼食を楽しんだクリスマスの夜に〈人生は死によって完結してほしい〉と願った作家、中村真一郎は死んだ。
一両だけの慎ましい電車が茶畑の合間を縫って走っていく。〈森の石松〉で有名な遠州森、無人駅の多いこの沿線だが、かつての秋葉街道の宿場町だけあって駅員の駐在する駅であった。森町は村松梢風の生地でもある。幼少期に預けられていた鋸鍛冶を業としていたという母の実家は、この町のどの方角に当たるのかわからなかったが、墓のある随松寺には思いの外、迷わずにたどり着けた。
父嘉平が大正12年に建てた「先祖歴代墓」、ここに中村真一郎も眠っている。祥月命日の数日後に訪ねたのだが、花立ては欠け、片方はどこかへ、あるはずの花影もなく寒々とした碑面が、かつて作家が学んだという小学校の校舎を、不安の影を抱いてまぶしそうに見下ろしていた。
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