本名=長田秀雄(ながた・ひでお)
明治18年5月13日—昭和24年5月5日
享年63歳
東京都豊島区駒込5丁目5–1 染井霊園1種イ8号5側
劇作家・詩人。東京府生。明治大学。文学を志し、はじめ『明星』『スバル』『屋上庭園』などに詩を発表。明治42年劇団「自由劇場」創立以後は新劇運動に参加、劇作家として知られた。43年の処女戯曲『歓楽の鬼』のほか、『飢渇』『大仏開眼』『石山開城記』『婦人の職業』などがある。
あゝ。俺はこれからたつた一人にならなければならない。腐つた顕脳と半死の身体を抱いて、----人々の冷たい眼光に、追跡されながら、寂しい、病院の寝台の上にたつた一人で、浅間しい最後をすすりなき待たなければならないのか。併し俺はどうしても、此まま死ぬ事はできない。死。あゝ、考へても恐しい。平生健康であつたため、俺はこの間題に付いて、まださう深くは考へて置かなかつた。呼吸が絶え、心臓の鼓動が止つて、筋肉が硬く冷たくなると、総ての意識は閉されてしまふ。俺は永久の暗黒のうちに、段々腐つて行かなければならない。いや、俺は何うしても、此儘死ぬ事は出来ない。俺は建築師が高い塔を築くやうにあの法理学新論を書くために土台を堅め、足場をかけて来たのだ。さうすると今になつて、敏、汝は行つてしまふ。のみならず、いつの間にかこの執拗な病気が、俺の生命に喰ひ込んでゐる。無益だ。もう無益だ。あゝ一生の希望も、計画も、皆一時に消えてしまつた。
(歓楽の鬼)
小説家の長田幹彦は弟。獨逸学協会学校中等部(現・獨協中学校・高等学校)の同級生木下杢太郎や北原白秋と新詩社を経て、文学と美術との交流を図って興した会「「パンの会」や『スバル』に参加、「新詩派」の三羽烏とも称されて明治末期の異国情趣の先端を走り、「頽廃耽美派」の詩人として活躍した。
明治43年に発表した戯曲『歓楽の鬼』が自由劇場で上演されたのを機に新劇運動に参加、脚本家としてイプセンやチェーホフに影響された作品を発表して気を吐いた。文化史劇『大仏開眼』は殊に好評を博した。
晩年は不遇のうちに長谷大谷戸の鎌倉大仏前に隠棲。戦後の荒廃の中、昭和24年5月5日、胃潰瘍のために死去した。
正面に建つ両親の墓に比べて何とささやかな墓であることか。 囲い込まれた生け垣の半丈ほどの石柱に「長田秀雄 志も」の文字が刻まれ、ひっそりとかしずくように建っている。
上野の森の寛永寺裏墓地にある弟 「長田幹彦」墓碑のような束縛感のない解放された明るさも感じられない。涸渇した土庭に、かつて北原白秋、木下杢太郎らと『屋上庭園』を編集し、自然の事実を観察して「真実」を描くために、あらゆる美化を否定した「自然主義文学」に席巻された明治末期に、「芸術至上主義」の風潮をもたらし、デカダンスを歌った作家の面影をつゆとも描くことはできなかった。
——〈褪めた真白な月が森の梢に 凝然と死んだやうに傾いてる。 褪めた真白な月が森の梢に〉。
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