中野孝次 なかの・こうじ(1925—2004)


 

本名・中野孝次(なかの・こうじ)
大正14年1月1日—平成16年7月16日 
享年79歳(徹心院文誉清遊孝俊居士)
長野県須坂市井上町2618 淨運寺(浄土宗)



独文学者・評論家・小説家。千葉県生。東京大学卒。昭和39年から56年まで國學院大學教授。カフカなどドイツ文学を翻訳、紹介。『ブリューゲルへの旅』で日本エッセイスト・クラブ賞、『麦熟るる日に』で平林たい子賞、『ハラスのいた日々』で新田次郎賞を受賞。『清貧の思想』『雪ふる年よ』などがある。



 



 事実まる二日一睡もしなかったからだは、わずかの酒で急に疲労と眠気に襲われていた。「そう、疲れたろう、そうおし」と母が外に連れだした。仕事場のなかに半地下室の大きな防空壕が掘られていた。狭い厚い戸をあけると、タタミが三枚しかれていて、奥には見慣れたタンスまでがあった。壕のなかは湿気と冷気があって、それが奇妙に気をしずめた。母がふとんをしきながら言った。
「まさかとは思うけど、おまえのことだからもしかしてなんて、みんなそりゃ本気で心配してたんだよ。父ちゃんだって気が気じゃなかったのさ。もしかして間に合わないといけないからって、聯隊に通知する手筈もしたし、おまえがいないでもせめて祝い事のまねだけしとかなくちゃなるまいって、それでああしたんだよ。」
「いいんだ、もうそんなこと。ともかく全部終った、あとは兵隊になるだけだ。」
「でもよかった、間に合ってね。それじゃ今夜はここでゆっくり眠っておくれ。ここなら空襲でも起きないですむから。」
「ああ。」
 風呂にもはいらず、浴衣に着かえるとそのまま寝床にもぐりこんだ。シーツにもふとんにもしっとりと湿気た感触があったが、それがかえって快かった。
「いいかい、つらいだろうけど辛抱するんだよ、変な気を起すんじゃないよ、兄ちやんだってみんなそうしてきたんだか
「ああ。」
「じゃよくねとくれ。明日は早いからね。」
 それから、子供のころそうしたように、ふとんの端を直し、ぽんぽんと手で二、三度たたいて出ていった。たかぶった気持のなかに眠気が急に襲いかかってきた。暗くて棺のなかのように静かだった。眠りにひきずりこまれる意識のなかに一瞬夕焼けの輝きがぱっと浮んだ。空一面朱と金とに染めて、濃緑の水田の地平に沈みかかっている巨大な太陽。歓声があがり
、重国の「すごいのう」という声がする。それがどこか別のくにで見た憧憬のように意識にうかんで、消えていった。まる
でこの世で見た最後の風景のように。

(麦熟るる日に)




 

 独文学者であり、日本にかってあった「清貧」という美しい思想を説いた『清貧の思想』や愛犬ハラスとの日々を描いた『ハラスのいた日々』のベストセラー作家として知られている中野孝次。
 平成16年2月8日、体調の異変を感じた中野は日記を密かにつけ始める。2年後に発見され、『ガン日記』として発表される1か月余りにおよぶこの日記には、余命1年として食道がんを宣告されてから入院まで、運命を受け入れながらも苦悶する心と心酔する哲学者セネカの言葉を胸にして、残された時間を強く生き抜く決意が和紙73枚に記された。
 3か月後の7月16日午後3時、肺炎のため神奈川県鎌倉市七里ヶ浜の聖テレジア病院で死去した。



 

 長野県須坂、りんご畑やぶどう畑の間の道を真っ直ぐに突っ切った先、杉山を背にした古刹淨運寺がある。長野県で一番古い浄土宗寺院といわれるこの寺で催される『無明塾』の常連講師として訪れるうちに、墓地からの眺めが気に入り、中野孝次が生前に建てた五輪塔がある。
 3年前、遺言書「死に際しての処置」に〈顧みて幸福なる生涯なりき。このことを天に感謝す。わが志・わが思想・わが願いはすべて、わが著作の中にあり。予は喜びも悲しみもすべて 文学に托して生きたり。予を偲ぶ者あらば、予が著作を見よ。予に関わりしすべての人に感謝す。さらば〉と書いた中野孝次の墓。かつて自宅庭にあった愛犬「ハラス」と「マホ」の墓、そして「ココニ眠ルハ 中野孝次 中野 秀 ソノ愛セル者タチ」の碑とともに。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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