河上徹太郎 かわかみ・てつたろう(1902—1980)


 

本名=河上徹太郎(かわかみ・てつたろう)
明治35年1月8日—昭和55年9月22日 
没年78歳 
山口県岩国市錦見1丁目7–30 普済寺(曹洞宗)



評論家。長崎県生。東京帝国大学卒。昭和4年『白痴群』を創刊。文芸とともに音楽批評も手がけた。戦時中は国策団体「日本文学報国会」に関与、戦後小林秀雄、亀井勝一郎らと共に糾弾された。『私の詩と真実』で読売文学賞、『有愁日記』で日本文学大賞を受賞。『ドン・ジョヴァンニ』『吉田松陰』などがある。






 

 まだ年よりでもないがさりとて若くもない私の年頃で、青春とは一体何であろうか?結局混濁と錯乱と衒気に満ちていて、それを豊饒と間違えている所のものである。つまり天地創造の時の混沌も同じものなのだろうが、その時神様の先ずしたことは水と陸を大別することであったように、青春の若々しい混沌も、これを整理する第一手段は、これに排水渠を作ることにある。つまり人は、その青春にあたって先ず情熱を注ぐことは、激しい自己鍛錬によって自分の感受性の形式を確定することである。そしてこの形式の独自性の中に、初めてその人の個性とか資質とか呼ぶべきものが芽生えるのだという風に私は考えている。だから例えばボードレールが、

   私の青春は嵐吹く闇夜に過ぎない

       そこここに陽の目は洩れこぼれたけれど。

 と歌う時、これはこの詩人の陰惨な青春を限定したものであるよりは、むしろ青春というもの自体の定義のように聞えるのである。人は歳と共に澄んでゆくものである。外に手はない。そして、省みて自分の青春を分析するなど、実に不可能なのである。

(私の詩と真実)




 

 東京府立第一中学校(現・日比谷高等学校)以来の友人、小林秀雄は河上徹太郎との最後の酒宴をこう書いている。〈病状がいよいよいけなくなり、では、二人でお別れの酒盛りをしようという事になって、病院のお医者さんの許可を得て、楽しく呑み、雑談した。その時、これが見収めの彼のいかにも穏やかな表情を忘れまいと思った〉と。
 前年の9月に北里大学病院に入院、その後、国立がんセンター中央病院に転院して以来、数回の入退院を繰り返した末の昭和55年9月22日午後3時5分、肺がんのため国立がんセンター中央病院で死去。東京カテドラル教会で行われたカトリック葬で小林は葬儀委員長を務め、秋の一夜、河上邸では通夜のミサがあった。暗闇の中で、秋の虫がしきりと鳴いていた。



 

 岩国藩城下町の横山と錦見をむすぶ木組みの錦帯橋。団体の観光客が引きも切らず降りたって、壊れた蓄音機のようにエンドレスにざわめいている。その橋から岩国市街にむかう道筋の山懐に岩国南八十八霊場の第一八番普済寺はある。
 岩国藩主吉川氏以来、藩士代々眠りの地となったこの寺には、門前、堂裏といわず、裏の山そのものも全体が墓山と化して無数の墓碑が雑多に建ち並んでいる。代々岩国藩に仕えた士族の末である河上徹太郎も当然のようにこの寺に葬られている。数基の一族墓のなかにある「河上邦彦以降家墳」、父邦彦に連なる墳墓に合祀され、本堂の大屋根越しに注いでくる湿った朝日を今日も厳かに迎えている。 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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