本名=條野健一(じょうの・けんいち)
明治11年8月31日—昭和47年3月2日
享年93歳(釈清方)
東京都台東区谷中7丁目5–24 谷中霊園乙13号左3側
日本画家・随筆家。東京府生。東京英語学校(現・日本学園中学校・高等学校)中退。水野年方に師事。明治34年烏合会、大正5年金鈴社を結成。文展、帝展で受賞を重ね、気品ある美人画・風俗画・肖像画の分野を開拓した。「築地明石町」は近代日本画の代表的美人画として評価が高い。『こしかたの記』など随筆集も多い。

人間は誰でも土の上にうまれ故郷を持っている、だがその他に、またはそれにつれて心のふるさとも持つている。
物心がついてまわりの人との接触がはじまり、本でも読むまでになると、知らず知らずのうちにその人なりの心の住家とでも名づけられるようなものが、心のなかにつくられてくる。だんだん長じていろいろな経験を経たり、また境遇につれてものの考えが変って来てからでも、それがい つか心のふるさとになって、いつまでも心の一角を占めるようになろう。
そうは云っても広い世間には、そんな感傷的なものはまるで持ち合わさないという人も あるに違いない。過去にも未来にも用はない、生きている間だけが世の中だ、と云われて了えばこちらは弓き下がるより手はないが、私などはちっと、いや、あるいは過剰に、心のふるさとを持ち過ぎている組かも知れない。(中略)
私のなかにしっかり根を下している心のふるさとというのは、物心を覚えてから、明治の三十四五年まで続いた自分のうちの生活にあるといえよう。それがおおねになっていてそれから昔へ脈々とつづいて溯りながら、あっちこっち根をはやして行ったのは、あとから追々と得た知識に想像が加わってふるさとの枝道もずいぶん出来ている。
心の、またはあたまのなかのふるさとは際まるところを知らないほどだが、現実の、土の上のふるさとは、悲しいかな今は探ぬるによしもない。とはいえ、そのよしもないところに惹かるる思いはなぜだろう、眼に見えぬ祖先の導きか、前の世からの執着か…… 。
月のうちに一度は必ず、奥戸の塵を吸いに空気のいい鎌倉から出かけてゆくが、ふるさとに変らぬものは、富士と筑波と、秩父の山々ばかりである。
(紫陽花舎随筆・心のふるさと)
鏑木清方は浮世絵の情緒を現代風俗の中に昇華させ、江戸の名残濃い明治の東京の庶民生活を気品のある風俗画、美人画に写した。心理描写を巧みに滲ませ、挿絵活動時代に培った文学性をもそれらの作品に定着させた。一方で若いころから文学に惹かれ、泉鏡花ら文学者たちとの親交によって受けた影響で文章にも長け、〈市民の風懐に遊ぶ〉とばかりに明治・大正時代の庶民生活を丹念な描写で描いた多くの随筆は同時代の貴重な資料ともなった。晩年は持病の眼瞼下垂症が昂じて、絵を描くにも苦労されていたようだが、昭和45年2月、67年もの間連れ添った愛妻照を亡くした2年後の47年3月2日、鎌倉市雪ノ下の自宅で老衰のため死去した。
明治35年秋の烏合会に送った「一葉女史の墓」の前に坐し清方は思うのだ。〈泉鏡花の短文『一葉の墓』を読んで」から、築地本願寺中の狭苦しい墓地に樋口家代々の小さな墓を探ねて香華を供えた。縷々と立ちのぼる香煙のゆくえを追って、そこに美登利の幻を覓めたのである。(中略)この画を描いてからもう六十年に近い歳月を経たが、さまざまの意味を籠めて、これは私生涯の制作の水上となるのではあるまいか。〉と。鏡花が深夜に力車に乗ったまま墓地の入口で長時間じっと黙していたという逸話のある谷中の墓地に「鏑木家之墓」はある。石柱側面に妻照と清方の俗名健一の名が読めるが、炎天の下、「一葉女史の墓」のように幽玄な雰囲気は到底望むべくもない。また道を挟んだ向かい側に師水野年方の墓もある。
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