本名=徳広巌城(とくひろ・いわき)
明治35年10月6日—昭和55年8月28日
享年77歳
高知県幡多郡黒潮町下田の口 生家裏共同墓地
小説家。高知県生。東京帝国大学卒。改造社勤務の傍ら同人誌『風車』を創刊。昭和7年『薔薇盗人』で出発。次第に私小説に進み、21年『聖ヨハネ病院にて』などの病妻ものを多く書いた。37年脳出血で半身不随になり、以後は口述筆記。『白い屋形船』で読売文学賞受賞。『春の坂』『ブロンズの首』などがある。

僕はこの後書を、都下K町の聖ヨハネ病院の一室で書いている。入院中の妻に附添いのため、寝泊りを始めてから十余日になる。妻は、最後の宣告に近きものを受けている。僕は、書く作品書く作品に、病める妻を題材として、読者を倦ましめて来た。しかし、これももう、そう長くは続かないであろう。妻が死んでしまえば、倦ましめようたって倦ましめる法がなくなるのだ。思えば僕は、妻が何も知らぬを奇貨として、臆面もなく、秘すべき妻の宿業を切売りの種にして、我が作家生活を樹てて来た。長じて子供たちが、父の作品を読む時の心事も思わぬではない。その罪、万死に値しよう。しかし、この妻あるがために、我が文学精神が支えられ、言い得べくんば、高く保たれたこと、いかばかりであったろう。もし妻亡き後を思えば、我が文学精神は萎徴し尽すやも計られない。それを思えば、我ながら不安に湛えられない。
(聖ヨハネ病院にて)
昭和37年11月、60歳、二度目の脳溢血により半身不随となったが、妹睦子の献身的な介護と口述筆記により以後の1年間、すさまじい執念によって作品を書きついだ。
昭和55年、この年は冷夏だった。南国土佐生まれ、暑さに強く夏の好きだった上林は、〈夏は脳溢血で死ぬ人が少ないので、安心していられる〉といっていた夏に死んだ。8月28日午後1時59分。川崎長太郎の追悼文にはこうある。〈最晩年に近づく程作品は短く、小説としての影も薄くなるが、散文詩みたいなその純度、透明度は上昇線を辿っていた。誰しも眼をそむけかねない境涯にひるまず、逝去するまで病床にあって長期間私小説一辺倒の精根を傾けた〉。
——上林暁の枕元にはいつの時も妹の睦子が控えていたのであった。
梅雨前、高知駅から土佐くろしお鉄道に乗って2時間弱。少し湿り気を帯びた海からの風をのって走る電車は、閑散とした海辺の無人駅に着いた。駅の南方には黒潮の洗う白砂、数キロも続く入野松原があり、その中に上林暁の文学館や文学碑がある。
汗を拭き拭き長い松林を抜け、運動公園のような区域をすぎると、一日二本しかやってこないバスの停留所が所在なげに立っていた。向かいの畑ではひとりの老婆が草むしりをしている。その前の段々畑に沿って細い坂道をのぼっていくと一群れの墓地があった。空は開けている。『父イタロウ』に記した〈海や松原や川口や田圃の見える、見晴しのいい、小さな岡の上〉に「徳廣厳城墓」、左に妻繁子の墓。南国の陽は浴び放題。
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