本名=梶井基次郎(かじい・もとじろう)
明治34年2月17日—昭和7年3月24日
享年31歳(泰山院基道居士)❖檸檬忌
大阪府大阪市中央区中寺2丁目2–15 常国寺(日蓮宗)
小説家。大阪府生。東京帝国大学中退。大正14年中谷孝雄・外村繁らと同人雑誌『青空』を創刊。創刊号に『檸檬』を、次いで『城のある町にて』『泥濘』『路上』などを発表。同人誌廃刊後は『文藝都市』同人となる。昭和3年同誌に『蒼穹』『ある崖上の感情』を発表。『櫻の樹の下には』『交尾』などがある。

「あああ大きな落日が見たい」
彼は家を出て遠い展望のきく場所を捜した。歳暮の町には餅槝きの音が起っていた。花屋の前には梅と福寿草をあしらった植木鉢が並んでいた。そんな風俗画は、町がどこをどう帰っていいかわからなくなりはじめるにつれて、だんだん美しくなった。自分のまだ一度も踏まなかった路−−其処では米を磨いでいる女も喧嘩をしている子供も彼を立停まらせた。が、見晴らしはどこへ行っても、大きな屋根の影絵があり、タ焼空に澄んだ梢があった。その度、遠い地平へ落ちてゆく太陽の隠された姿が切ない彼の心に写った。
日の光に満ちた空気は地上を僅かも距っていなかった。彼の満たされない願望は、ときに高い屋根の上へのぼり、空へ手を伸ばしている男を想像した。男の指の先はその空気に触れている。−−また彼は水素を充した石鹸玉が、蒼ざめた人と街とを昇天させながら、その空気のなかヘパッと七彩に浮び上る瞬間を想像した。
(冬の日)
転地療養先、伊豆湯ヶ島温泉での川端康成、宇野千代、萩原朔太郎や広津和郎、尾崎士郎などといった面々との交流は衰弱しきった梶井青年の心身を大いに癒やし、その感覚世界は大きく広がり変化していった。しかしながら文筆で身を立てる決意をするにも、その時間は脆くも消え去っていった。
血痰は毎日のように口元からほとばしり、呼吸困難を防ぐ手立ても失せた。昭和7年3月24日午前2時、梶井基次郎は肺結核のため大阪・住吉の小さな長屋で、母ヒサの呼びかけに大きく最後の息を吐き安らかに逝った。同人誌という「文壇」とは離れたところで多くの作品が発表され、ほとんど無名のままの作家人生であった。遺言により寝棺には、お茶の葉が詰められ、周囲を草花で飾られていた。
人間の感覚できる世界はどのような想像の中に存在するのだろうかと、私はいつも思い続けてきた。
〈桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか〉。
独特の詩的感覚を漂わせるこの文体に長い間あるイメージをもっていたが、廻りをビルで囲まれた暗く、低い塋域で日の暮れを静かに待っている「梶井基次郎墓」に対すると、窮屈そうに敷き詰められた墓石群の中に、私の影が溶けていってしまうような不安な感覚におそわれてきて思わず空を見上げたのだが、いつか何かの映像で基次郎と因縁のあった宇野千代の墓参の様子が映されていて、あまりにもその表情があっけらかんとしていて拍子抜けしたものだった。
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