本名=金子安和(かねこ・やすかず)
明治28年12月25日—昭和50年6月30日
享年79歳 ❖光晴忌
東京都八王子市上川町1520 上川霊園1区1番18号
詩人。愛知県生。慶應義塾大学中退。大正8年処女詩集『赤土の家』出版後渡欧、10年帰国後『こがね蟲』を出版。戦後も『落下傘』『蛾』『女たちへのエレジー』『鬼の児の唄』『人間の悲劇』などを次々と発表した。ほかに『どくろ杯』『風流尸解記』などがある。

きれい好きな掃除女のぬれ雑巾のやうに、『時』は、すぐさま僕らのしたあとを拭ひとる。皿をなめとる野良犬の舌のやうに、
うまいあと味をのこす暇がない。すばやくこころにしまひそこなつたら、
それこそしまひまで、僕らの人生は無一物だ。仕掛花火のやうにみてゐるひまに
僕らの目の前で蕩尽される人生よ。花火を浴びて柘榴のやうに割れた笑はふたたび闇に沈み、
今夜のできごとは、一まとめにして、投込み墓地に
葬られる。歪れた手足も、くひしばつた歯も、ぬれた陰部も、
決してうかびあがらないのだ。痕跡すらも、世界に、おぼえてゐるものはないのだ。
(花 火)
〈墜ちる道を墜ちきることによって〉と断じたのは坂口安吾であったが、金子光晴もまた〈日本人の誇りなど、たいしたことではない。(略)そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ〉と人間の救済、再生を思うのだ。かつて〈空気も、薔薇色の雲も、あの深邃な場所にある見えざる天界も二十五歳である。〉と書き綴った燃えるような生命の情感は、反骨、反逆の詩人、洒脱なフーテン老人ともてはやされた晩年の金子光晴に悠々とたどりつく。森三千代という恋多き一人の女性に熱く絡まった長い流浪人生。
昭和50年6月30日午前11時30分、気管支喘息による急性心不全により、最期の時を迎えた詩人に見えた天界は、果たして……。
〈骸は適当に始末して、骨は小さな壺に入れて埋葬してください。〉と遺言した光晴の墓碑は、石川淳や安部公房、臼井吉見なども眠る、多摩川上流の山深い丘陵を拓いた広大な霊園にある。
九十九折りの坂道を登りきると、山頂を削り取って平らにしたような狭い台地に出る。盛りを満喫しおえて思い切り伸びきった薄穂がそよと揺れる塋域に身を委ねると、遠くに薄らいでしまった色彩の風景が反転するように浮かび上がってきた。晩秋の空は青く明るい光を放っている。
昭和52年6月29日、三千代が76歳で死去した。数度の結婚、離婚を繰り返し、ありていにいえば愛欲にまみれて曼陀羅模様の人生を生きた「金子光晴/森三千代」、この石碑の下に二人は眠る。
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