本名=亀井勝一郎(かめい・かついちろう)
明治40年2月6日—昭和41年11月14日
享年59歳(超勝院釈浄慧居士)
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園20区1種22側13番
評論家。北海道生。東京帝国大学中退。昭和10年保田与重郎らと『日本浪漫派』を創刊。同誌廃刊後は雑誌『文学界』などで宗教論、美術論、文明論・歴史論、文学論を展開した。『人間教育』『大和古寺風物誌』『親鸞』、戦後は『現代人の遍歴』『愛の無情について』『知識人の肖像』などがある。

一切衆生は悉く仏となる筈だが、しかし悉く仏となる時は来ない。人間の迷妄は無限、地獄は永遠である。しかもその故にこそ誓願は絶えず、菩薩の夢は永遠なのではないか。これが太子の追究された大乗の急所であったと僕は信じている。太子が救世菩薩として仰がるる所以は、救いや解決を現世に与えたからではない。現世の昏迷に身を投じ、救いも解決もなく、ただ不安に身を横たえられたその捨身故にこそ菩薩として仰がれるのであろう。死ぬまで地獄と対決し、忍耐した、その救いのない深い憂苦の姿が、即ち後世の僕らにとって生々とした救いとなるのではなかろうか。
(大和古寺風物誌)
大正15年、東京帝国大学文学部美学科に入学するのだが、共産主義青年同盟などに参加、政治活動によって検挙される。収監された市ヶ谷刑務所で喀血。結局は転向を余儀なくされるという青春の挫折を糧にして自己を追究し続けた彼の生涯には、日本の古典的な美と信仰が広がっている。
『日本人の精神史研究』は、7年余りにわたり、ライフワークとして渾身の力を込め書き綴ってきた精神史であるが、全六部の構想のうち四部までを書き上げ、あと二部を残すのみとなった昭和41年7月、食道がん手術のため築地・国立ガンセンター中央病院に入院することになった。手術後一時は退院したのだが、10月に再入院、11月14日午前2時37分、肝臓転移により急逝した。
昭和44年、〈ロマンティシズム〉の函館、青柳町アサリ坂をのぼった一角に文学碑が建立された。碑文は自筆によるもので、「人生 邂逅し 開眼し 瞑目す」と記されている。この三つの仏教的な言葉に亀井勝一郎の人生論の全てが集約されている思いをするのは、私の年齢による感慨ばかりでもないだろう。
多磨霊園の枝葉を広げた五株ほどの木犀を背後に、自署の白い文字を浮き立たせた黒御影の石碑は、くっきりとした低い姿勢の厳格とした構成美を整えてあった。谷口吉郎設計によるこの繊細な墓の入り口近くには、〈歳月は慈悲を生ず 亀井勝一郎〉の碑があり、遠い時間が小さな点となってふり降りて、振り返った私に自身を問いかけてきた。
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